A Companion to Moral Anthropology (Wiley Blackwell Companions to Anthropology)
- 作者: Didier Fassin
- 出版社/メーカー: Wiley-Blackwell
- 発売日: 2015/01/20
- メディア: ペーパーバック
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- Fassin, D. (ed.). (2012). A Companion to Moral Anthropology. Wiley-Blackwell.
- 32 Dungan, J. & Young, L. "Moral Psychology"
世界には様々な道徳規範があります。これらをどのように分類するのが適切でしょうか。分類は、道徳に関連する心理を解明するための実験を適切に設定するためにも重要です。これまで、様々な道徳規範は「内容」か「関係」の点から分類されてきました。
「内容」を基盤とした説としては、たとえばShwederらの「CAD三点仮説」があります(Rozin et al., 1999)。これは、「共同体」・「自律」・「神聖さ」の3つの次元での分類を行うものです。またハイトの道徳基盤理論(MFT)は様々な道徳規範を、「危害/ケア」・「公正/互酬」・「内集団/忠誠」・「自律/尊敬」・「綺麗さ/神聖さ」の5つの領域に分類しています。
しかし、こうした内容重視のアプローチには欠点があります。まず、「中庸」や「勤勉さ」にかんする道徳規範はどこに位置づければいいのでしょうか(Suheler & Churchland 2011)。またそれらを新しい領域と認めるにせよ、新しい領域を増やす際の原則は何なのかを明らかにしなければ、無際限に領域が増える続けることになり、理論としての説明力が失われるでしょう。
また、もし内容だけが重要なら、殺人は誰を殺しても殺人なのだから悪いということになり、尊属殺人がゆるされるのは何故かをうまく説明できないでしょう。この点では、行為の主体と相手の間の「関係」を基盤とした説のほうが優れています。Rai & Fiske (2011)は、道徳は特定の種類の人間関係を保持しようという動機からなるという説を提唱しました。彼らによると関連する人間関係は4種類、(1)家族や内集団などの緊密な関係を指す「統一性」、(2)「平等性」、(3)「階級」、そして(4)コストと利益の釣り合いに基づいた人間関係を指す「均衡」です。しかしこの説は規範の内容を捨象してしまったがために、子供を「殺すこと」と子供を「だますこと」の間にある違いをうまく説明できないでしょう。
そこで、「内容」と「関係」双方を取り入れた折衷案が求められます。危害にかんする規範を考えてみましょう。先ほどみたように、危害規範は必ずしも全ての危害を禁じるものではありません。たとえば自己危害には積極的な価値が付与されていることすらあります(ハラキリ)。一方で、自己危害の中でも自分自身を汚すようなものは、綺麗さ規範で禁じられています。つまり、危害規範は「他人への」危害を、綺麗さ規範は「自分への」不潔ささを対象とする、というかたちで、内容と関係の両方が効いているのではないでしょうか。実際たとえば、他人の手を熱湯に手をつける(危害)か尿につける(不潔)かしなければならない場合は尿につける方がまだマシだが、自分の手をつけるなら熱湯の方がマシだという判断が、実験でも確認されています(Dungan et al., forthcoming)。
ここで著者らは、その規範が禁止/推奨する行為が自己(あるいはそれに近しい内集団など)に向けられたものなのか、それとも他人に向けられたものなのか、という2つのタイプで道徳規範を分類する「2タイプ説」を提唱します。ハイトのMFTがおいた5領域に関して言えば、「綺麗さ」・「忠誠」・「階級」は前者に、「危害」・「公正」は後者にあたるでしょう。しかもこの説は、新しい道徳的関心が現れるごとに〔基本的な分類タイプに〕修正を加える必要がないという点でハイトの説より優れています。
では、この説を支持する証拠はどのくらいあるでしょうか。著者らは三種類を概観します。
- (1)情動に関するもの
「恥」という情動は、自分が他人からの期待に添えなかったときに生じる、自己への否定的評価を含みます。一方で「罪悪感」は、自己ではなくて特定の行為、己の良心にもとる行為へと向けられた否定的評価を含みます。そこで「2タイプ説」に従えば、「綺麗さ」・「忠誠」・「階級」といった自己にかんする規範の違反のほうは恥を喚起しやすいと考えられるでしょう。一方で、罪悪感の方は行為が誰に向けられているかは問題ではないので、二種類の規範の違反の間での差は少ないと考えられます。あるいはどちらかといえば、他人に影響する行為の方が、罪悪感をもたらしやすいでしょう。なので、「危害」・「公正」規範の違反は罪悪感を喚起しやすいと考えられます。以上の予測は、恥の文化と罪の文化に関する人類学的研究からおよその支持を得られていると言えるでしょう。
また、階級規範の違反は軽蔑を、綺麗さ規範の違反は嫌悪を喚起させることが知られています(Rozin et al. 1999)。これらの情動は、自分(と近しい集団)を傷つけてくる違反者から己の身を遠ざける役割を果たしていると考えられます。逆に、共感や同情はない集団での援助を増やします。
- (2)行動上の緊張にかんするもの
内部告発が典型例ですが、ある集団に忠実に振る舞うか、それとも公平に振る舞うか、という緊張を強いられる場面があります。そして公平さを重視したものはしばしば、道徳的に振る舞ったはずなのに、手痛い反撃に遭うことがあります。2タイプ説は、この反撃を説明できるかもしれません。というのは、忠誠は身内へバイアスがかった行為を命じますが、公正は全然関係ない他人のための行為を求めるからです〔なので、片方を重視するともう片方を犠牲にすることになりやすい〕。実際、人が実験のなかで内部告発をするかどうかは、忠誠を重視する程度と公平を重視する程度の「差」に大きく影響されます(Graham et al., 2009)。また、理想的に道徳的な人とはどういう人なのかを人々にあげてもらうと、共感的で愛を重視する「ケアする人」と、公正で合理的な「正義の人」という二つのプロトタイプが浮かび上がってきます(Walker and Henning 2004)。人々は己の道徳的理想像に従っているにもかからわず、対立が起こってしまうのです。
- (3)認知過程に関するもの
「綺麗さ」・「忠誠」・「階級」などの規範では、近しい人に対する特別の義務が要求され、この分だけ特別の認知リソースが必要とされます。このことは、不作為バイアスを利用した研究で明らかになっています。一般的に言うと、同じ程度の被害をもたらす場合、行為より不作為の方が甘く判断されがちです。しかし、親による子供の世話のように、被害者が加害者に対し従属的関係にある場合、このバイアスは消えます(Haidt and Baron 1996)。このように、忠誠や階級や綺麗さが問題となる規範では結果だけが重要だが、公正や危害の規範では意図が重要であることは、神経科学的な実験によっても示されています(Young and Saxe 2009, 2011)。
また、人に認知的負荷をかけてやると、忠誠・階級・綺麗さを重要視する程度が減ることが知られています(Wright 2011)。おそらく、私たちの心にとっては公正と危害の規範がまず基準線で、忠誠・階級・綺麗さの規範に従うためには更なるリソースが必要なのだとかんがえられます。