えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

シャフツベリとハチソン テイラー (1989) [2010]

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

  • テイラー, C. (1989=2010) 『自我の源泉』 (下川他訳 名古屋大学出版会) 

第三章 不明確な倫理 
第八章 デカルトの距離を置いた自我
第九章 ロックの点的自我
第十四章 合理化されたキリスト教
第十五章 道徳感情 ←いまここ
第十八章 砕かれた地平
第十九章 ラディカルな啓蒙
第二二章 ヴィクトリア朝に生きたわれらが同時代人
第二五章 結論ーー近代の対立軸

1 シャフツベリ

・ロック的な理神論に対し、後に「道徳感情論」として知られる別の理神論が存在する。ロック的理神論は超アウグスティヌス主義を背景としたピューリタニズムを起源とし、人間が堕落した本性を持つという見解や主意主義を受け継いだ。こうした見解によれば、神の法は堕落した人間にとって外在的である。ロックの神学はその経験主義的機械論とも親和性を持っている。対象化された自然の中に「高次の善」は存在しえないので、高次の善に関して功利主義的な見解を避けるならば何らかの命令説をとるしかない。
・これに対し、「ケンブリッジ・プラトン主義者」の中ではエラスムス的伝統が生きており、人間は内在的に神と調和していると考えられた。彼らは、主意主義は神を暴君にしており、宗教を作り物(Art)にしてしまっていると批判した。むしろ人間は自然へ向かう傾向を持っており、真の宗教は内面的な自然である。
・しかし17世紀から18世紀の転換期に当たり、アウグスティヌス的内面性がこうしたエラスムス的神学(プラトン主義)を書き換えつつあった。すなわち、(1)自律的理性の持ち主としての人間主体に中心的位置を与えること、(2)恩寵を追いやること、の2つが組み込まれるようになった。そこから出てきたのがシャフツベリである。
・シャフツベリはストア派に大きな影響を受けており、人間は本性上「秩序正しく美しい全体」(ピタゴラス‐プラトン的)を愛すことができ、そこから我々を遠ざけるのは、世界のうちの何かを悪や不完全だとする誤った判断だと考えた。都市の略奪や人類の滅亡といったあらゆる災厄も、事物の秩序と本当は一致しているのである。
・このように善を宇宙それ自体の性質に帰する見解は、超アウグスティヌス主義やロック的理神論と明らかに衝突する。後者によれば、善や悪は内在的なものではなく、法や規範に相対的なものにすぎないからだ。自律的な理性を説得できない宗教的権威は認められないという点で、ロックの見解をシャフツベリも受け継いだが、道徳的源泉は距離を置いた主体の尊厳ではなく、「善としての全体」への愛に向かう人間本性の内在的傾向のうちに見出された。
・シャフツベリの見解は古代への回帰のように見える。しかしシャフツベリは「自然的愛情」natural affection について語る。「人間は本性上全体を愛する」というテーゼは、「私たちが自らの位置を正しく把握すれば、家族や知人を超越して、全人類に対する無私の愛に達する」という形で述べられる。自然的愛情は社会の靱帯であり、善悪に関する感覚とともに生得的能力である。ここにはシャフツベリが近代的な2点が表現されている。
(1)目的論的な倫理が内面化、主観化している
シャフツベリは、(近代的な意味での)「愛情」という動機に依拠して宇宙の善の愛される所以を説明し、しばしば「道徳感覚」を語った。これは古代の理論にはない近代的な趣である(ここで投射主義への衝動が強くなる。しかし動機を強調するが投射的ではない理神論がありえ(次章)、テイラーは有神論の外でもこの主張を擁護する)。
(2)秩序・調和・均衡の倫理が仁愛の倫理へと変容している
ストア派にとっての目標は、〔本人の〕魂の調和と均衡であった。一方でキリスト教の惜しみなく与える徳は、天職と一般的善に結びつきにより日常的存在の倫理へと統合され、その後の世俗的形態においては、人の役に立つことの重要性が強調された。節制や正義だけでなく仁愛の動機が善のカギである。シャフツベリはストア派的でありたいと強く考えていたが、善行が大きな重要性を持つ事とは認めていた。
・以上のようなシャフツベリの近代性は、ハチソンを主唱者とする道徳感覚理論の中で花開くことになった。

2 ハチソン

・ハチソンは、外在理論は人間の経験を無視しているとして批判した。我々が道徳的に行動するとき利他的な動機に動かされていることは、明らかである。この衝動を心理的に説明するため、ハチソンはロックを足掛かりにした。つまり感覚は受動的に作用するので、それがもたらす観念は解釈を許さない所与である。そして、「私たちは道徳感覚を持つ」と主張したのである。かくして道徳的行為はこれ以上説明のつかないものとなった(ただしこの動きは、道徳判断を色などの事実判断と同じく扱い、そこから距離を置いて投射とみなす可能性を開くものであった。実際ハチソンもこの可能性を認めたが、それは現行の道徳的ありかたを神の選びとして賛美するためだった。)
・しかしハチソンの主眼はそこではない。ハチソンは(1)道徳感覚が私たちを仁愛へと促すという極めて近代的な主張と、(2)仁愛こそが私たちの幸福に最も役立つという主張を行い、神の善性についての説明を行った。(2)は外在主義者と共通のテーゼだが、両者の争いは道徳的行為の主要動機の点で、すなわち、人間本性の中に仁愛を認めるかの点で争っていた。この点が重要なのは、自らのうちに善への主要動機を〔誤って〕認めないことは人間を落胆させ動機を削ぐからである。善性を見つめることが私たちをより善くする。さらに、全宇宙が善であり、創造者の「普遍的仁愛」から生まれたことを理解すれば、その効果は一層大きくなるだろう。
・【小括】ハチソンはロックの心理論を受容しつつ、シャフツベリを介して外在主義を攻撃するエラスムス的伝統に帰った。ただし、善へ向かう人間の傾向は(1)感情の中で完全に内面化され、(2)普遍的な「仁愛」という形態をとる。
・仁愛の強調の点ではロックに対してハチソンは接近しており、功利主義へ至る伝統にハチソンを位置付けることはできる。しかし両者においては道徳的源泉が異なる。前者では、距離を置き、自己責任で洞察力を駆使し、合理的で支配をふるう主体の尊厳のうちに源泉はある。後者では、自分自身のうちの感情に源泉があり、それが正しい形態をとるよう配慮しなければならない。この違いは18世紀前半にはあまり意識されなかったが、「内なる自然」という観念の展開に伴い次第に重要な対立点になっていく。