- 作者: ジョナサンクレーリー,Jonathan Crary,遠藤知巳
- 出版社/メーカー: 以文社
- 発売日: 2005/11
- メディア: 単行本
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- クレーリー・J (1990) [2005] 『観察者の系譜』 (遠藤知巳訳 以文社)
視覚文化論の古典を読みました。様々な器具は、モノとしてあるいは技術史の一コマとしてだけでなく、より大きな出来事や権力の配置のなかで理解する事ができます。クレーリーは一方で17・18世紀にはカメラ・オブスキュラ、他方で19世紀にはステレオスコープなどの視覚器具を取り上げ、1800年代の最初の2-30年の間に起こった観察する主体の身分の変容を明らかにしようとします。
カメラ・オブスキュラは、発明された1500年代末期から1700年代終わりにかけて、「視覚」を理解するための重要な例になって行きました。一点の小窓から暗室の中に対象の像を写しだすその構造は、外界の表象を精神によって秩序づけることによって外界についての知を得ると言う、新しい主観性の良いモデルになっています。そこでは、視覚は暗室という内面にいる観察者自身からは切り離されます。内面化と脱身体化された視覚において主体は透明であり、視覚は光学の問題です。
しかし、ゲーテが世界に対応物を欠いてもなお残存する色彩について語り、ショーペンハウアーが表象を生理学的な出来事として語る時、観察者自身の身体が視覚にとって問題になり始めます。19世紀初頭には、視覚は生理学の問題になるのです。特殊神経エネルギー説を唱えるミュラーは、刺激と感覚との間には必然的な関係はないと主張し、カメラ・オブスキュラモデルは視覚を理解するのにますます不適切なものになっていきます。
カメラ・オブスキュラの生み出す像と現実の対象は即時的なものであるとされていました。しかし視覚が身体化されると、それは時間性(残像)をもつことが明らかになってきます。この視覚の持続を利用したのが、フェナキスティスコープ・ソーマトロープ・ゾートロープなどの視覚器具でした。そしてステレオスコープは、我々には(一点の窓ではなく)2つの目がある事、その両眼の視軸が不同である事、極め付けにカードは二枚必要であることによって、「リアルな」映像を生みだす装置です。このような視覚のあり方は、もはやカメラ・オブスキュラの古典的な観察者モデルとは全く異なったものになっているのです。
フーコーの『言葉と物』における洞察を、視覚器具の分析を通して現金化した著作です。カメラ・オブスキュラの構造と主体の構造を重ね合わせる着想が鮮やかです。