http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1468-5930.2012.00574.x/abstract
- Kahane, G. & Savulescu, J. (2012). The Concept of Harm and the Significance of Normality. Journal of Applied Philosophy, 29, pp. 318-332.
害のパズル
- (1)重度の知的障害であること、対麻痺である事、盲目である事、20歳以前に死ぬ事
これらは当人を害する(harm)ものだと思われます。あるものがある人を害することは、「それが別様であった場合よりもその人の人生を悪くする」ことだと分析できます。ところがこの時、次のようなものも害だと言うことになってしまいます。
- (2)IQが160以下であること、偉大な芸術の才能を欠いている事、130歳以下しか生きない事、テレパシーがない事
しかし(1)と(2)の間に道徳上の相違があるのは明らかだと思われます。その根拠としてまず考え付くのは、(1)は「人間という種がもつ標準的な機能や能力からのネガティヴな形での逸脱である」点が害だ、と言うものでしょう。しかし、生物学的な標準性というものは進化の盲目的なプロセスによって決まっているにすぎず、それ自体で道徳的意味を持つものでは全くありません。また、統計的な標準性に訴えるのは更に恣意的です。現在の正規分布のある点にたまたま乗っていることがどうしてそれ自体として道徳的な問題になるのでしょうか。
かくして、この一見明らかな道徳上の相違が説明できないというパズルが生じます。
どうやって直観を説明するか
そこで、生物学的・統計的な標準性が内在的に道徳的意味を持つと主張することなく、この相違を説明しようとする幾つかの提案を見てみます。
- 【φ】相違があるという直観自体を否定(ラディカルエンハンスメント論者⇔障害の社会モデル)
→流石に直観は否定しがたい
- 【A】(1)と違い(2)が幸福(wellbeing)をどの位減らすかよくわからない
→認識論的な問題にすぎない
- 【B】(1)はありうる利益を剥奪するだけだが、(2)は「積極的に」害である
→盲目も内在的に害な訳ではなく様々な善を剥奪するからこそ害なのであり、この道具的な悪さと言う点ではテレパシーがない事と変わらない
- 【C】(1)と違い、(2)が成立していない可能性は極めて低いので無視して良い
→それは人口レベルの話にすぎない。個人レベルで見れば、(1)が成立していない可能性が無限に低い場合もあり、そのような人を無視するわけにはいかない
- 【D】(1)と違い、(2)によって幸福が剥奪された生はそれでも十分良いものである
→何が十分良い生なのかは簡単には決められない
⇒どれもうまくいかないようです
統計的標準性の重要性
では何がこの直観を説明するのか。害という概念は、行為の理由を与えます。何かが人の幸福を減らしている場合、それを取り除くべきそれなりの理由があります。ただし、この点を考慮しても(1)と(2)に道徳上の相違が出てくる訳ではありません。やはり両者には内在的には違いはないのです。
しかし、幸福を促進させるための資源は限られているので、ここには配分的正義の問題が生じます。そして、「より状況が悪い方を優先する」という影響力ある正義の構想によれば、(1)のような人々の幸福が「他の多くの人より」悪い状況にある程度だけ、その人々に重要な道徳的な優先を与える根拠があります。
もちろん(1)の諸項が必ずしも幸福を削減するとは限りません。しかし、我々が「機会」の平等に価値を置くような正義観をとる限り、「多くの人に対して」開かれている機会を持たない少数の人々(例えば低いIQの人や盲目の人)には道徳上の優先が与えられる根拠があります。
⇒統計的な標準性は、それ自体としては道徳的な意味を持ちません。しかしこのように、配分的正義の問題を経由した派生的な形でこそ、道徳的な意味を持つのです。
(また、害は行為のみならず、同情したり気の毒に思ったりするといった態度にも理由を与えます。(1)のような人々に対してはこういった態度をとることはふさわしいけれども、(2)ではそうでもない、という我々の直観も、類似の議論によりうまく説明されるでしょう。)