えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ゲーテとカント カッシーラー (1945) [1979]

18世紀の精神―ルソーとカントそしてゲーテ

18世紀の精神―ルソーとカントそしてゲーテ

  • カッシーラー・E (1945) [1979] 『十八世紀の精神』 (原好男訳 思索社)

・「カントとルソー」
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『エッカーマンとの対話』には次のような発言があります。

  • 「カントは、わたしが独立にかれと同じ道を追っていたというのに、全然わたしに注意を向けなかった。わたしが『植物変態論』を書いたのは、カントについていくばくか知る以前だが、これは完全に彼の思想と一致している」

一見すると、ニュートン主義者であるカントとゲーテの自然観は正反対であり、この発言は謎に満ちているように思われます。この発言を読む鍵は『判断力批判』にあります。
  まず、二人が否定したものの共通性について。カントは、生物現象を考察するに当たって「目的」概念が不可欠であると考えましたが、このとき同時に、「昼は仕事のため、夜は睡眠のために存在する」といった、目的と有用性を同一視する素朴な見解を退けました。ゲーテもこのような見解にもともと大きな嫌悪を感じており、カントによる目的概念の批判的分析を受け入れたのでした。
  次に、肯定したものの共通性について。「形態学」という言葉を作り出したゲーテは、自然の有機物に対するそれまでの「種」観を近代のそれへと完全に移行させました。これまでは分類することがすなわち理解することでしたが、ゲーテは、こうして把握されるのは「生み出されたもの」にすぎず「生の過程」を捕えるには不十分だと考えます。「すでに存在しているもの以外は何物も生じえない、という生硬な考え」にそれなりの有効性を認めつつも、その拡張と深化を求めたのです。ゲーテによれば、この生硬な考えを打ち破ったのがカントです。カントは事物の存在だけでなく生成を理解しようとします。宇宙の発生について論じましたし、そして進化の一般理論が何をすべきなのか理解していました。
  ゲーテの「形態学」は「変態論」に至ります。当初ゲーテは「原植物」が現実的・具体的な存在者だと考えており、原植物は「経験的ではなく理念的だ」とシラーに言われてへこんでいました。しかしシラーはカント派として発言していたのであり、ゲーテものちに「原植物」を理念、あるいは「象徴」と呼ぶようになります。この変化に対するカント/シラーの影響の程度は確言できませんが、晩年のゲーテに対する強いカントの影響から考えるとありそうなことです。

  カントがゲーテに影響力を持ちえたのは、独断形而上学に対する見解が一致していたからです。この合致は、カントを抽象的・理論的反省の頂点とみる一方でゲーテの中に「素朴な」詩人・芸術家をみるような伝統的な思考では捕え難い。確かに、科学者ゲーテは見ることを重視し形のない抽象化を嫌悪する直観的な思想家でした。しかし、事実がすでに理論であり、注意深く見ることは既に理論化であるというゲーテの見解は、決して素朴ではない、理念と経験の関係に対する一つの洞察を表しています。ゲーテは、思考だけでなく視力の限界を見出したのです。
  ゲーテはカントとは違って科学に天才を認めましたが、天才とは活動と行為によって法と規則を与える人間の力だと言うカントの見解を高く評価します。普遍的で必然的な自然の法則の認識に至る方法こそ、悟性と観察という形で異なりますが、法のみが我々を自由にするという原理を、カントは倫理の領域に、ゲーテは芸術の領域に導入します。講壇哲学者はカントに破壊の作業を見ましたが、一方でゲーテはそこに解放の作業をみてとったのです。