えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

科学と精神をめぐる問題への手引きの一冊 ディクソン (2008) [2013]

  • ディクソン・Th (2008) [2013] 『科学と宗教』 (中村圭志訳 丸善出版)

  オックスフォードの有名な"Very Short Introduction"シリーズから理工系のものをあつめたものが、丸善出版から「サイエンス・パレット」シリーズとして翻訳されています。その中でもつい先日発売されたトーマス・ディクソンの『科学と宗教』を読みました。本書が特徴的なのは、史的な記述に加えて、現代の科学や科学哲学(ナンシー・カートライトが引用されたりしています)、心の哲学の知見が豊富にかつ手堅く参照されている点だと思います。

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  「科学と宗教」と言うと、両者の単純な「闘争の物語」を我々は語りがちです(それも、しばしば宗教に対する科学の勝利というかたちで)。しかしそれでは、個々の場面での対立の背後にあるより複雑な事情が忘却されてしまいます。本書でディクソンは、その背後にある政治的な対立に我々を注目させます。
  「闘争の物語」として語られる典型例はガリレオ裁判です(2章)。しかし裁判の背景には、「啓示の知識の源泉としての身分」をめぐるキリスト教内部での問題がありました。ガリレオは、「聖書は一般人でも読めるレベルで書かれているから必ずしも字義通り読まなくておk」というアウグスティヌス以来の読解法で自説を弁明していました。しかし時代は対抗宗教改革、三十年戦争に際して保守的なスペインへと忠誠先を変えようとしていたローマの教皇ウルバヌス8世にあっては、断固として権威主義的な信仰の守護者であると示す必要がありました。だからこそ、聖書のどの部分を知識の源泉とするか一個人の読解と推論で決めるガリレオの「僭越な」態度を見逃すことはできなかったのです。
  3章では、神による世界への介入、すなわち奇跡が扱われます。現代の科学理論が様々に参照されつつ、神学者のジレンマ「神は好き勝手に世界に介入しているか、さもなければ、世界の創造にしか手を下していない。どっちをとっても愛と崇拝を向けるべき存在のように思われない」の困難さが示されます。
  科学と宗教といえばその目玉はやはり進化論で、本書ではこの問題に2章を割いています(4−5章)。1860年当時英国学術協会で起きた論争は、英国の科学と教育制度内部での主導権争いという背景の中に、また今日のインテリジェントデザイン説をめぐる論争は、教育制度への影響力争いという背景の中に置かれ、単に「科学対宗教」の図式に収まらない紹介がなされています。
  しかし、科学によって宗教的信念が排されれば、我々は同時に、来世の信仰やこの世での道徳的責任を失ってしまうのではないでしょうか? 最終章ではこうした倫理の問題が扱われます。まず脳神経科学の知見を紹介しつつ魂の不死について簡単な議論が行われ、つづいて利他性と同性愛の事例を引きつつ、「自然さ」に依拠する倫理・政治的主張に疑いを向けよという示唆がなされています。