えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

近代の自我の登場 テイラー (1989) [2010]

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

  • テイラー, C. (1989=2010) 『自我の源泉』 (下川他訳 名古屋大学出版会) 

第三章 不明確な倫理 
第八章 デカルトの距離を置いた自我
第九章 ロックの点的自我 ←いまここ
第十四章 合理化されたキリスト教
第十五章 道徳感情
第十八章 砕かれた地平
第十九章 ラディカルな啓蒙
第二二章 ヴィクトリア朝に生きたわれらが同時代人
第二五章 結論ーー近代の対立軸

距離をおくことと制御

・17世紀には自己支配モデルを強調する新ストア派があり、規律の広範で厳格な適用を目指す政治運動と結び付いていた。新しい哲学、管理と軍事組織の方法、統治の精神、規律の方法、これらは「方法に則った規律ある行為によって自分自身を改造する事が出来る」という新しい人間観を共有していた。デカルトはこの理念を明確化したものである。
・「「距離を置くこと」を通じて制御する」ことがこの人間観の鍵になる。「距離を置くこと」は「対象化する」こと、ある領域が持つ規範的力を剥奪する事と相関している。機械論への移行は、イデアの秩序が持っていた現実への目的設定力を無効化する。
・機械論への移行を促したのは認識論的考慮にとどまらない。現実のうちに倫理の基準があれば神の主権に制限が生じてしまうという神学的感覚も、無制限の決断の自由の対象としての機械論的な宇宙を要請した(オッカム)。このように、機械論を動かした原動力の一つには(当初は神の)「制御」と機械論の結合にあった。科学革命がはじまると、二つの原動力は渾然一体としてくる。(おそらくベーコンの影響下で)道具的な制御は科学的真理の基準ともなった。
・「距離を置くこと」が主体それ自身に向けられさらに推し進められたところに「点的自我」がある。既にデカルトは、我々を生活世界から退却させることでこの運動を開始していた。ラディカルな再規制によって一人称的な経験に注意が集中させられ、対象化された非人称的な様相へと移行させられる。
・以上から、次の結び付きの存在が示唆される。
(1)「距離を置くこと」と対象化は、ある種の権力ないし制御と結びついている
(2)この制御は、正しい手続きという理念(理性の定義)と結びついている
(3)理性的であることは知識の獲得と結びついている。
・(しかし、「距離を置くこと」と制御を特権化する認識論が自明的に正しいわけではない。我々には経験に<没入して探求する事>もできる。)

ロックの認識論

・機械論的自然学の受容は、自己の対象化にとって十分ではない。主体に関しては目的論的見解を維持しようとする人々がいた(ライプニッツ・カドワース)。一方でロックは、観念の生得性を拒否する際に、知識と道徳両面にわたる深い意味での反目的論的な人間本性観をも表明していた。
・ロックは、生得的と言われる諸観念を受け入れる前にその基礎を検討すること提案する。これ自体は新しくないが、採られる「距離の置き方」が極めてラディカルになっている。すなわち、デカルトのように二次性質や身体的感覚のみならず、心的な活動全体が問題となり、心は極めて物的なものにされる。
・まず、心に関する原子論が採用される。事物についての理解は単純観念と言う素材から組み立てられている。次にこの原子は、「感覚に対する衝撃によって心に刻印が押される」という疑似機械論的なプロセスで誕生する。さらに、原子の集まり方は観念連合という疑似機械論的なプロセスで説明される。
・このような考え方は、独立と自己責任という理念(理性は習慣や権威から自由であること)を生み出し、またそれを反映している。ロックにもデカルトにも、知識とはその所有者本人がそれを展開しなければ本物ではない。理性的であることは、原理に従って見解を構築するという思考のプロセスの性質であり、ラディカルに再帰的なものである(自然発生的な信念や合成物の精査を要求するから)。そうするとこれは各人が自分でやらなければならないことであり、権威と理性は鋭く対立する。これが「自己責任」である。

ロックの道徳理論

・心を対象化する反目的論的見解は、動機づけの理論にも変更を迫る。ロックは快楽主義的な道徳理論を採用するが、それはやはり物化される。私たちを動かすのは、善すなわち快の見込み〔認知的なもの〕ではなく、善の不在によって引き起こされる「落ち着きのなさ」である。なぜなら落ち着きのなさだけが現にあるものであり、現にないものが作用すると言うのは事物の本性に反しているからである(遠隔作用の排除)。
・これは、「人間は自分の最も強い欲求に駆り立てられる」という動機づけに関する純粋に決定論的な理論の基礎となりうる。しかし、物化は制御を可能にするものでもあり、ロックは欲求を中断する能力を持つ意志を導入する。我々は自分の好みから距離をとることで、より理性的で利益を得るような仕方で、自分自身を改造する事が出来る。
・改造の理性的目標は神に定められた法・自然法である。だが法に従うことは最大の幸福にとって有益でもある。神は命令に賞罰を随伴させたからである。

点的自我

・このように、改造を目的としてラディカルな「距離をおく」態度をとりうる主体が「点的自我」である。この態度をとると言うことは、自己を、「対象化し改造する力」と同一視する事であり、そして変更されうる対象である全ての個別的特徴から自分を切り離すことを意味する。
・この力は意識に基礎を持つ。ロックは、自我の同一性は意識に基づくと論じるが、この時、意識はそれを具体化するもの〔個々の身体〕から完全に分離できることが前提されている。この前提が、自らを純粋な独立した意識と見なす見解を生み出し、そしてそれが、自己制御と自己改造の基礎となる。

・ロックの認識論・ラディカルな距離を置く戦略・人間心理の物化は、啓蒙期に強力な影響を持った。規律ある態度が西洋文化の中心的地位を占め、ロックの理論がこれと密接な関係を持ったからである。ロックの理論は、科学的知識に理性的制御と関連した形で尤もらしい説明を与え、自己責任の理念の下で両者を統合する。理性的で自己責任を負う主体は、権威で真であるとされた諸々の事柄の妥当性をテストし、改造したり置き換えたりできる。今日に至るまでロックの見解は大きな影響力を持っている。

・「自己制御」というテーマを西洋の伝統の変遷を通じて追及すると、宇宙的秩序の姿としての理性のヘゲモニーから、道具的制御を行使する点的な「距離を置いた」主体に至る大きな変質が見出された。古代の道徳思想家にとって重要なのは、秩序を見る力であったが、「距離を置く」という近代の理念は再帰性を要請する。
・我々は再帰的態度を、近代的な生活様式に深く結びついたあらゆる規律(経済、道徳、性の分野での自己制御の規律)を通して吸収した。このような再帰的態度の言語によって自らを理解し判定する人間として、我々は自らを「自我」とか「私」とか「エゴ」という再帰表現で記述するのである。
・もうひとつ近代哲学の大きなパラドックスがここに生じている。「距離を置くこと」によって分離された自我は、何か所与のもの〔対象化されるもの〕と同一視されることはありえない。対象化の哲学は唯物論を生み出したが、こうしたラディカルな客観性は、ラディカルな主観性を土台にして初めて成立したのであった。
・ラディカルな再帰性を不可欠なものとする私たちは、古代人にとってはありえないような仕方で、自我である。