えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「ホメーロスにおける人間把握」 スネル (1955) [1974]

精神の発見―ギリシア人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研

精神の発見―ギリシア人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研

  • スネル, B. (1955) [1974] 『精神の発見―ギリシア人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研究』 (新井靖一訳 創文社)
    • 第1章 ホメーロスにおける人間把握

  スネルは、ホメロスにおける「見る」という意味の諸語を検討することから始めます。それらの古い語には、見る際の具体的なしぐさや感情の様態が込められていました。一方、我々が「見ること」の実質だと考える、<眼が何かを知覚する>機能は本質的なものとはされていません。この意味で、彼らは「見る」ことを知らなかった、ということが出来ます。またスネルは、「身体」にあたる複数のホメロスのギリシャ語が複数形で用いられることや、体の各部分を強調させる初期ギリシャ芸術を参照し、人間の身体は有機的な統一体ではなく、各部分の集合体(すなわちGlieder; 四肢)として捉えられていたと指摘します。
  では、身体の対概念たる精神あるいは魂はどうでしょうか。関係する言葉はホメロスには3つあります。まず「psyké」。これは確かに人間が死ぬと身体から去って黄泉をさまよう魂の謂です。しかし、生きている人間の中での働きはまったく何も語られておらず、思考し感覚する魂とはかけ離れています。次に「thymós」および「nóos」。これらはそれぞれ、運動と感情を引き起こす心的器官、観念をうけとる心的器官だと考えられます。いずれも、我々の「精神」や「魂」の直截な対応物ではありません。
  ホメロスが「全体としての魂」を知らない以上、「thymós」や「nóos」あるいは「psyké」を「魂の諸部分」と考えることは出来ません。これらは身体的な器官との類比から、独自の機能を持つ単独の器官だと考えられているのです。
 ホメロスから前5世紀の間に、(おそらく魂の不死という観念の影響下に)「身体 sôma」対「魂 psyké」という区別が行れますが、ここでは何かが「発見」されています。実際新しい魂観のいち早い表現者であるヘラクレイトスにおいては、魂には非身体的で特殊な性質が与えられています。それはまず「深い」ロゴスです。この魂独自の「強度」の次元は、ホメロスとヘラクレイトスの間、抒情詩の時代に、精神的なものの「無際限」さを語るために考案されました。ホメロスが量的に「数しれぬ」苦しみと言うのを、抒情詩作家たちは「深い」苦しみというのです。
  また、精神には自らを増大させるロゴスがあるとヘラクレイトスは語ります。しかしホメロスにおいては、例えば集中したり全力を振り絞ったすることで精神の力が増大する事はありえません。力の増大には常に外部、すなわち神が関与するのです。アリストテレスの理解する「第一動者」としての魂という観念は未だなく、人間は諸々の外的な力にむき出しのまま晒されているものとして把握されます。だからこそ、ホメロスはそれぞれに独特な性質を持つ具体的な諸力について執拗に語るのです。 
  こうした諸力は元来宗教に結びついており、ホメロス以前の人々はおそらく、自発的に活動できない「thymós」や「nóos」のような器官は呪術に委ねられていると考えたのでしょう。しかし、ホメロスの英雄たちは、自分たちは混沌とした諸力ではなくオリュンポスの神々の力に委ねられていることを知っています。そしてホメロスの歩んだ道を更に進んだ人々は、神々のはたらきをますます人間の精神の内へ取りいれていきました。ホメロスの人間把握は、ヨーロッパ的思考の第一段階といえるのです。


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