えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

距離をおいた自我 テイラー (1989) [2010]

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

  • テイラー, C. (1989=2010) 『自我の源泉』 (下川他訳 名古屋大学出版会) 

第三章 不明確な倫理 
第八章 デカルトの距離を置いた自我 ←いまこここ
第九章 ロックの点的自我
第十四章 合理化されたキリスト教
第十五章 道徳感情
第十八章 砕かれた地平
第十九章 ラディカルな啓蒙
第二二章 ヴィクトリア朝に生きたわれらが同時代人
第二五章 結論ーー近代の対立軸

道徳の源泉の場所

・ギリシャ:外 → アウグスティヌス:内だけど神に由来 → デカルト:人間の内部

存在論と認識論、二元論

・世界の秩序はイデアを体現するものではなく、機械論的に理解される。同時に、実在を知るとは〔世界に顕在化するイデアを見るのではなく、〕「その正しい表象をもつ」事だという表象主義的知識論が現れる。イデアは精神の内なる「観念」となり、イデア=観念の秩序は「発見される」ものではなく、精神の内に「作り上げられる」ものになる。
・この時諸観念は、実在に対応しているだけでなく、十分な根拠ある確実性である「明証性」という主観的な基準をもとに集め組み立てられる必要がある(思考=cogitare)。
・こうした考え方は新たな二元論を要請する。プラトンにとって超感覚的な魂の本性が実現されるのは、〔おなじく〕超感覚的で永遠不変の事物に向かう時であった。一方デカルトにとって、魂を非物質的なものとして理解するとは、魂と事物の間の存在論的な違いを判明に知覚することである。それは、事物を延長として把握する事であった。通常の身体化された経験の下で我々は、物体が色や甘さ、熱といった性質をもつし、痛みやかゆさは足や歯にあると考える。しかし明晰判明であるためには、こうした視点の外へ踏み出し、距離を置いた視点をとることが要求される。
・デカルトは身体を霊的なものが現れる媒体としては認めない。しかし魂が自らを自由にするのは、方向を変えることによってではなく、身体化された経験を不断に対象化する事による。この意味でデカルトの二元論は、プラトンとは違って身体を必要とする。

自己支配と情念・道徳的源泉の内面化

・理性は、知識が要求する基準を満たす秩序を「構築する」能力になった。このことは「理性による自己支配」に違った内容を与える。デカルトはストア派に似て、私たちの最大の満足は理性のヘゲモニーそのものに由来すると考えた。
・しかしストア派にとって理性のヘゲモニーとは世界に関する一定の見方のヘゲモニーの事である。すなわち、情念は誤った判断だと解釈され、事物の(そして善の)秩序について洞察することで、理性的な自制への移行がなされる。こうした、世界の秩序の洞察を強調する主知主義は古代ギリシャ由来の倫理に共通してみられる。
・一方デカルトにとっての理性のヘゲモニーとは、「欲望を使う」と言う意味での理性の道具的制御のことである。必要な洞察は善の秩序ではなく、心が機械論的な物質界からは切り離されているという洞察である(知識と制御の結合)。
・デカルトにとって情念は判断ではない。それは動物精気によって魂内部に引き起こされる情動であり、有機体の生存に役立つ運動へ身体を向かわしめる。そして、理性が情念を支配するとは、情念を通常の道具的機能に留めておくと言うことになる。したがってストア派とは違い、デカルトは情念を取り除くことを求めない。それどころか、偉大な魂の持主は、その強い理性の下で激越な情念を制御する。
・このように、理性のヘゲモニーが理性的制御として、つまり身体・世界・情念を対象化する力、あるいはそれらに対して徹底して道具的な態度をとる力として理解されるようになると、道徳的強さの源泉が私たちの外部にあることはあり得なくなる。

貴族的な徳の内面化

・脱魔術化された物質に対する精神の支配が理性的制御ならば、善き生の感覚は主体が理性的存在として持つ尊厳の感覚から生じる筈である。この主題は、自尊心の満足を強調し、名誉倫理の最高徳であった「高邁」を中心にするデカルトの倫理に既に現れている。
・ストア派やアウグスティヌスは名声の批判者であり、デカルトもそれを受け継ぐ。しかしデカルトの倫理は、その源泉を尊厳と自尊心の感覚に見出すがゆえに、名誉倫理の精神の一部を「内面へ」と転換させる。すなわち、強さや堅固さ、決意、制御といった貴族的な徳は、もはや〔これまで批判対象であった〕公的な場で名声を勝ち取ること、公共の場で勇気ある偉大な軍事的行動をすることに関係するものではなくなる。思考が情念を支配するところに関係するものとなるのである。
・デカルトによれば「高邁」とは、「自らの意思に対する自由な統御のほかには真に自己に属するものは何もないこと」「この意志の善用や悪用のほかには賞賛や非難を受けるべき理由は何もないこと」を知ること、「自ら最善と判断する全てを企てて実行するために、意志を善く用いる〔……〕という堅固かつ恒常的な決意を自分自身のうちに感じること」に存している情動である。高邁においてはまさに、「理性的制御」が、思考する存在者が持つ尊厳の感覚から動機づけられている。

実質から手続きへ

・デカルトの認識論も倫理学も、世界および身体から<距離を置くこと>とそれらに対して道具的な態度をとることを要求する。理性的であることは、発見される存在の秩序によって実質的に定義されるものではなくなり、自分たちが科学および生において秩序を構築する際の諸基準によって手続き的に定義されるようになる。
・このことは、アウグスティヌス的源泉を変質させた。アウグスティヌスの道で人は、内に向かうことで自らが自足的存在でないことを感じ、内なる神の活動を理解するようになる。一方デカルトは再帰的な展開によって、独力で完全に自足的な確実性に到達する。もちろん、デカルトも自我から神への移行を行うが、それは内なる神との出会いを求めることではなく、自分が確実に持つ能力からその源泉を推論することにすぎない。
・デカルト本人は理神論者ではない。しかし、自足した内面性、理性によって秩序づける自律的能力の内面性と言う考え方は、近代的不信仰の地ならしを行うものでもあった。