(https://mospace.umsystem.edu/xmlui/handle/10355/5510)
- 作者: Justin Patrick McBrayer
- 出版社/メーカー: Proquest, Umi Dissertation Publishing
- 発売日: 2011/09/11
- メディア: ペーパーバック
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- McBrayer, J. (2008) *A Defense of Moral Perception*
Chapter 1: 道徳知覚の擁護
Chapter 2: 道徳知覚経験
Chapter 3: 道徳知覚 ←いまここ
Chapter 4: 道徳知覚の認識論
3.0 序
やること:道徳知覚と思わしき事例が知覚の外的制約を満たすことを示す
3.1 知覚の外的制約
- 外的制約とは?
・Ried, Chisholm, Jackson, Huemerらの見解に共通する要件として、およそ次のようなものを取り出してくることが出来る。
【外的制約】
主体Sがthat X is F を知覚している only if
1.XはFである(事実性条件)
2.Sの知覚経験が適切な形で惹き起こされている(因果条件)
- 因果条件について
・因果条件を詳しく特定するのは難しい。感覚様相ごとに条件が異なるように思われるし(Alston 1991)、少なくとも逸脱因果は排除したいが、逸脱因果を論点先取にならずに特徴づけるのも難しい。さらにde dicto知覚の場合、XのみならずF性(今回は道徳的な)によって知覚経験が引き起こされていると言わなければならないように思われる。
・ここでは因果条件の詳しい検討は行わない。そのため、道徳知覚と思わしきものと典型的な知覚の類似による議論を行い、挙証責任を降ろす。
3.2 因果と知覚
・事実性条件は満たされている(ネコに火をつけることは実際に悪い)と仮定する。
【理由1】道徳実在論は真で道徳事実があることは既に仮定しており(1章)、その上で道徳知覚の可能性を問題としている。道徳事実を知る方法について尤もな説明がないから人は反実在論者になるのであり、この仮定は問題回避的だといわれるかもしれないが、ここでは道徳知覚の可能性から実在論を擁護しているのではないのでこれは当たらない。
【理由2】外的世界の知覚の説明をするときも似た仮定が置かれていて、外的世界の事物の実在性を独立に主張しろと求められたりしない
3.2.1 二次的な自然的性質としての道徳性質
・道徳知覚が不可能に思われる理由の一つは、道徳性質が知覚能力と因果関係を結べない点にある。しかし、因果的に無力な性質をde dicto知覚することはできる。色は、ある意味で対象「において」存在しておらず因果的に無力だが、人は机が茶色いことを知覚することができる。道徳性質は二次性質かもしれない(マクダウェルとかこう言う)。
・色はそれ自体としては因果的に無力で、「その下にある」一次性質が効力を持つが、にも関わらず色は知覚される。道徳性質が二次性質なら、おなじようにして、知覚の外的制約が満たされていることがありうる。
- 相対性による反論
・ただしこの擁護法はコストが高い。まず有効な反論として「相対性による反論」がある。
【相対性による反論】
道徳性質は観察者の偶然的事情に依存するようなものではない。
ところが二次性質は本質的に観察者の側の偶然的事情に依存している
・この反論に対しては、観察者のスコープに制限を加えればよい。これは色概念を同種の反論から守るために色盲者を例外にするのと同じ処理である。しかしこの場合、「普通の人」は道徳知覚できない事になってしまうのかもしれない。
・ただし、普通の人も善い道徳的事実によく応答できるように訓練できるのかもしれない。
・ともかく、もし道徳性質が二次性質なら、因果条件が満たされ得ないとするちゃんとした理由はない。筆者のテーゼにとっては道徳のエキスパートだけが道徳知覚できるのでも十分である。
3.2.2 二次的でない自然的性質としての道徳性質
・道徳性質それ自体が因果的に無力であり、しかも二次性質でないとしても、まだ類似の典型的な知覚経験がある。
・われわれは「ナイフが鋭いこと」を見たり、「あれは猫だということ」を聞いたりできるが、これは非二次的な自然的性質を知覚している事例にあたる。
・自然的性質とは、ハードサイエンスによって研究しうる性質、あるいは、それと同一/還元可能な性質のこと。猫であることや鋭いことは、特定の物理的事実に還元できる。あれは猫だということを聞く際、因果的なストーリーの中に、性質<猫である>は登場しないかもしれないが、この性質はもっと低レベルの性質に還元され、それが因果的なストーリーの中に入っている。
・そこで、もし道徳性質が、ハードサイエンスによって研究しうる性質のサブセットと同一/還元可能なら(道徳自然主義)、因果条件が満たされ得ないとするちゃんとした理由はない。
- Huemerの反論
・Huemer (2005) は以上の戦略を次のようなものだと理解した。
(1)私はthat X is N を知覚することが出来る(Nは何らかの自然的性質を指す)
(2)善さ = N
(3)従って、私はthat X is good を知覚することが出来る
その上、1)は内包的文脈を形成しているのでこの推論は妥当ではないと論じた。
・1)が内包的文脈を形成しているのは確かにそうだが、この反論は今の問題と関係ない。なぜならここでは、人がthat X is Fを知覚でき、FがGと同一/還元可能ならば、「人はthat X is Gを知覚できる」と論じているわけではない。この前提の下ならば、「性質Gは性質Fと同じように、関連する知覚経験に対して因果的に寄与しうる」という因果条件についてだけ論じている。
- メタ倫理次第になってしまうよ反論
・道徳的な悪さが、原初状態で人々が同意する契約よってその行為が禁じられるゆえんとなる特徴をもつという性質であるような場合、このような奇妙な性質は自然的性質かも知れないがどうやって知覚能力に因果的に影響を与えるのかにわかにはわからない。すると、道徳知覚の可能性は道徳性質の本性に大きく依存することになる。
・この反論には2つの応答が出来る。まず、(全てではないにしろ)ある種の道徳自然主義のもとで道徳知覚が可能だということを示しただけでも前進である。
・もう一点、因果条件が求める因果的接触は、XもしくはXのF性の「一部分との」接触であるはずである。私はコンピュータの底面とは因果的接触を持つことなく、コンピュータを知覚することが出来る。
・同じように、少なくとも道徳性質に密接に関係した/それを構成する性質と因果的接触が持てれば、因果条件が満たされるには十分である。ある行為が禁じられているのは、それが痛みを引き起こすという性質を持つからかもしれず、そしてその場合、この性質と因果的に接触することはできる。
・そして、いかなる道徳性質の存在論をとろうと、道徳性質が因果的に接触できる性質と密接に結びついていないということはありそうにない。従って道徳知覚の可能性がメタ倫理的な道徳存在論に依存することはないだろう。
3.2.3 非自然的性質としての道徳性質
・ムーア以来、道徳性質は非自然的性質だと考える哲学者がいる。もしそうだとしても道徳知覚が可能なことを示すには、2つの戦略があり得る。
- エピフェノメナリズムに訴える戦略
・非自然的性質で明らかに知覚可能なものを挙げることが出来れば、類似による議論を続けられる。これの例としては、エピフェノメナリズムが正しかった場合の心的性質の知覚が挙げられる。ただし、エピフェノメナリズムはかなり問題のある主張のため、これを前提すると議論が弱いものになることは必至である。
- 偶然性を避けるためならSVしてればいいよ戦略
・そもそも、なぜ因果条件が必要なのか。それは、例えばオアシスの幻覚を見ていたのだが偶然にもオアシスが目の前にあったような事例を避けるためであった。つまり、知覚は偶然的なものであってはならない。
・しかし、この種の偶然性を避けることができるのは、当該の性質と知覚経験との間の因果関係に限らない。その性質がSVしている先の性質と知覚経験の間に因果関係がある場合でも、この種の偶然性は避けられる。性質Aが性質BにSVしているなら、Bと因果的接触を持った時に性質Aが例化されているような経験を持つのは偶然ではない(ルイスが、知覚の成功/不成功は適切な形の反事実的条件に依存していると論じたときにもこれと似たような提案が行われている。)
・これは、同一性/還元可能性に訴えた先の議論と同形である
【ナイフの鋭さ】
↓還元
【自然的性質】―因果→【ナイフが鋭いかのような知覚経験】
【行為の悪さ】
↓SV
【自然的性質】―因果→【行為が悪いのような知覚経験】
・たとえ道徳性質が非自然的性質だとしても、それは自然的性質にSVしていると広く考えられている(自然的性質が同じなのに道徳性質だけ異なっているのは奇妙である。)。
・そしてSV先の自然的性質と因果的接触を持つことができ、道徳性質の自然的性質へのSVが知覚の因果条件を満たすのに十分であるなら、道徳知覚と思わしき事例もやはり知覚の因果条件を満たし得る。