- Earp, B. D., & Savulescu, J. (2016). Is there such a thing as a love drug?: Reply to McGee. Philosophy, Psychiatry, & Psychology, 23(2), 93–96. https://doi.org/10.1353/ppp.2016.0007
【要点】
- 「愛」を広く使いすぎだという批判には共感する。だが、愛の本性についてあえて踏み込まなかったのには理由がある。
- まず、真の愛と不健全な依存という区別は自明でも普遍的でもない。
- またこうした区別には、非標準的な形の愛を病理化するという道徳的リスクがある。
- また、愛を関係的に考えても、神経伝達物質に注目することには意味がある。個人の脳への介入は関係的に捉えた愛にも重要な影響を及ぼすからだ。
[93l] McGee (2016) は、我々の「愛」という言葉の使いからは包括的にすぎ、これをやめるだけで愛の医療化や真正性に関する懸念は減ると論じている。McGeeの提案では、「愛」は次の条件を満たす関係にのみ用いるべきである。
- a) 特定の人物に結びついている
- b) 主として相手自身によって引き起こされている
- c) 相手に対する真摯な配慮と関心を特徴とする[93r]
- d) 虐待的ではない
- e) 報われる可能性がある
Jenkins (2017) も同様の反論を提起しており、我々はこうした批判には共感する。各人が自身の好む愛の定義の観点から議論に貢献することは歓迎である。我々自身は、愛の本性にはあえて踏み込まず、最大限広義に取ることで、[94r] 様々な技術の正当性の問題に注意を集中してきた。
だが、McGeeの想定する「真の」愛と「不健全な執着」という区別は、(本人も認めているように)自明でもなければ、普遍的に受け入れられているわけでもないことには注意するべきだ。たとえば、今では少数派だが、西洋には愛を利己的なものと捉えたり(May, 2011)、狂気と捉える伝統もある。愛は「健全」でなければならないという考えかたは比較的最近の発明であり、これは愛の「医療化」の過程を反映しているのかもしれない(May, 2011; Illouz, 2012)。
また、治療の対象となるべき「不健全な執着」と「真の」愛との間に「客観的」な区別を立てようとすることには道徳的なリスクもある。様々な非標準的なかたちの愛やセクシュアリティが、まさにこの方法で有害かつ不適切なかたちで病理化されてきたからだ(Gupta, 2012)。「健全/不健全」のような区分のほとんどは実際には価値判断を伴っている。我々としては、「愛」というラベルをはることが害をもたらしているかどうか、それを科学技術により予防・軽減できるかのほうに関心を持っている。
[94r] 我々の立場が愛の還元主義について曖昧だとMcGeeが指摘しているのは正しい。これは愛の概念次第の事柄であり、我々は特定の概念を支持していないからだ。だが、高次の愛について具体的に説明せず〔低次の〕神経化学的操作の話ばかりしていては、還元主義を支持しないと言っても口だけだとMcGeeは言う(Ferarro 2016も同じ指摘をしている)。
[95l] だが還元主義は我々の立場ではない。この点を明確にするために、ここでは上掲のMcGeeの基準を採用し、愛とは関係的な状態なのだと仮定したい。だがこのとき、この関係的状態に対して、単一個人の脳に作用する神経化学物質がどう影響するかを問うことには依然として意味がある。たとえば、選択的セロトニン再取り込み阻害薬は、単に「低次」の性欲を鈍らせるだけでなく、パートナーの感情を気遣うという「高次」の能力をも損なう(Earp, Wudarczyk, Sandberg, & Savulescu, 2013)。つまり、愛を「単一の個人の脳内に位置づけ」なかったとしても、個人の脳への介入は(より関係的に捉えた)愛に対して依然として重要な影響を及ぼしうる。[95r] McGeeの論文タイトルは「ラブドラッグなるものは存在するか」という問いを投げかけているが、我々の答えはこうである。(1)それは愛の捉え方次第である。(2)が、少なくともMcGee自身の捉え方に基づけば確かに存在すると思われる。