えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

旧陸軍の航空研究戦略の変容 水沢 (2010)

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007730703

  • 水沢光 (2010) 「旧陸軍の航空研究戦略(科学史入門)」 『科学史研究』 49(255), pp. 174-178

  日本の旧陸軍は白兵中心主義の思想をとっていたため、航空兵器開発は周辺問題として海外技術に依存していました。しかし33年、航空器材に関する研究方針を陸軍が初めて画定すると、陸軍内部で航空研究機関への期待が生まれてきます。
  35年、いわゆる「統制派」の構想は、民間航空を航空予備軍と捉えてその振興を求め、応用研究を行う研究機関の新設を提言します。同時期、アメリカ・イギリス・ドイツなどの視察からも、航空技術研究の中央統制機関の必要性が主張されます。こうした動きの背後には、東京帝国大学航空研究所(駒場IIキャンパスにあった)の研究が学術的なものにとどまっているという陸軍の批判的認識がありました。
  これらは陸軍内部の構想でしたが、2.26事件以降政治的発言権を強めた陸軍は、37年6月の第一次近衛内閣発足時には「航空省」および「中央航空研究所」の新設を内閣に求めます。「航空省」の提案は、航空分野所管が奪われることを嫌う逓信省や、陸軍主導で空軍が独立することを恐れた海軍の反発があったため、逓信省の外局として「航空局」が設置される形に落ち着きました(38.2)。この中で逓信省と海軍の連携が進み、結局両者の主導によって39年4月に応用研究を目的とする「中央航空研究所」が逓信省に設置されます。また陸軍の批判を受け、30年代末より帝国大学航空研究所全体のプロジェクトに陸軍委託研究が組み込まれていきます。こうして30年代後半の陸軍の要求は国内の応用研究の進展に一定の影響を与えました。
  ところが、39年以来アメリカの対日技術封鎖が本格化してくると、陸軍の期待は変化していきます。41年にドイツ・イタリアへ派遣された視察団は、「独創的技術発達ノ温床ヲ培養」することを求め、すぐには実用化できない新技術の開発能力の向上を主張しまました。日本は応用研究を支える広い意味での研究開発が貧弱な後発工業国であり、技術封鎖が行われるなかで、幅広い科学研究の振興に向かわざるを得なくなったのです。
  42年2月、内閣に技術院が設立されます。これは、陸軍の要求を受けて航空技術を向上することを主な行政対象とする機関でした。航空兵器研究において「比較的基礎的ト見ラルヽ科学技術」を実施するとする技術院の指導のもと、41年の視察団が報告した新技術の研究課題(成層圏飛行に関する技術や大馬力の発動機など)が、委託・命令研究として小規模分散的に実施されていきます。こうして41年以降は、応用研究に加えて幅広い科学技術の振興が目指されて行くことになったのでした。



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