えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

傾向性としての愛と、薬物使用によるその喪失 Arrell (2020) + Earp and Savulescu (2020)

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  • Arrell, R. (2020). No love drug today, Philosophy and Public Issues, 10(3): 45–60.
  • Earp, B. D., & Savulescu, J. (2020). What is love? Can it be chemically modified? Should it be? Reply to commentaries, Philosophy and Public Issues, 10(3): 93–151.

【要点】

  • アレルのコメント
    • SSRIのような薬はパートナーの感情をケアする能力を鈍らせるために、パートナーへの愛を変化させるものだとEarpとSavulescuは論じる。
    • たしかに、愛は相手をケアすることを要請する。そして、このケアは反実仮想的状況を通してロバストに要求される。ここに、「薄い」善である「ケア」と、「豊かな」善である「愛」の違いがある。
    • ただし、あらゆる状況を通じてロバストなケアが求められるわけではない。そのような状況の一つが、ケア能力が服薬により下がっている状況である。この場合、パートナーを「ケア」する能力はたしかに鈍るが、パートナーへの「愛」は変化しない。したがって、SSRIは「ラブ・ドラッグ」ではない。
    • 逆に、「ケア」に影響する薬はすべて「ラブ・ドラッグ」なのだとすると、およそあらゆる薬が「ラブ・ドラッグ」になってしまい、この概念の意義が失われる。


  • アープとサヴァレスキュの応答
    • 「ケア」とは、単なる利益供与行動ではなくて一種の傾向性であり、それが愛を構成するものだと我々は理解している。SSRIなどの薬物はこの傾向性に影響するので、愛がその「影響を受ける」というのは定義的に言える。問題は、愛がなくなることもあるというより強い主張ができるかどうかだ。
    • ここで、ケア傾向それ自体と、その傾向を実行する能力を区別する。SSRIが阻害しているのが後者だと考える場合、たしかに愛(ケア傾向)は損なわれないと言える。
    • だが、SSRIがケア傾向それ自体を阻害する場合、「薬がなければパートナーは私を愛していた」という反実仮想がいかに成立していても、この現実における「パートナーは私を愛していない」という信念は正当である。つまり、薬物の影響で愛がなくなることもある。
アレル「いま、ラブ・ドラックは存在しない」

[45][46] この論文では、EarpとSavulescuの『ラブ・ドラッグ』のうち、「愛を変化させる薬物はすでに利用可能であり、一部は広く使用されている」という主張を否定する(pp. 149–150)。人々が服用する処方薬の多くが様々な形で人間関係に影響を及ぼしていることは事実であり、その点の研究をすすめるべきだというEarpとSavulescuの主張には同意する。だが、そうした薬物が影響しているのは愛ではない。

  • I 愛の実際

 [47] 愛とは何なのかについて、EarpとSavulescuが明確な立場をとらないことは理解できる。しかし、最小限の特徴として次が認められている。「真の愛は少なくとも、相手の福利を真にケアすること(また、それを促進させるようとすること)を要請するものである」(p. 59)。ここでは、この主張の含意について検討したい。

 [48] ここでの「ケア」とは、一般にすべての人々に対するケアを超えた、特定の相手の福利に対する特別な配慮であるとする。この配慮は、偶然的理由によって動機づけられてはならない。たとえば、私があなたをケアするとしても、その理由があなたが超富裕層であるということしかなければ、あなたは私の愛を真に享受したことにはならないだろう。

 言い換えると、愛は、Pettit (2015) の言う「堅固に要求する」(robustly demanding)あるいは「豊かな」(rich)善の一種である。この善は、状況が多少変化した非現実的シナリオにおいても要求される。愛の場合、あなたが「豊かな」善としての愛を享受するためには、私が現実にあなたをケアする(これ自体は「薄い」(thin)善である)だけでは不十分であり、(i)私は状況が多少変化してもケアする、[49] かつ(ii)私がそうする理由のなかで、あなた自身に関連する考慮事項が唯一無二かつ不可欠な役割を果たしている、という条件が揃わなければならない。これは難解に思えるかもしれないが、ここで示唆されている直観は私たちの多くが持っているものだと思われ、そのことは様々な詩歌に反映されている。たとえば、ラナ・デル・レイはこう問うている。「若く綺麗でなくなっても/まだ愛してくれる? 痛む心だけになっても/まだ愛してくれる?」

 [51] 愛についての以上の説明は、EarpとSavulescuも大筋で受け容れてくれるのではないかと思う。EarpとSavulescuは、愛の定義よりも、それが自分や他者にどのような害をもたらすかに関心があると述べていた(p. 94)。だが、豊かな善としての愛というのは相手が享受する善を増加させるのである。[52] あなたの私への配慮が偶然的事情に動機づけられていた場合でも、私は薄い善(ケア)を享受することはできる。だが、あなたが適当な傾向性を持っている場合、私は愛という豊かな善(愛)をさらに享受することができるのだ。

  • II 「生物学上の変化は愛の変化。原理の証明」

 さて、EarpとSavulescuは、ある種の薬を服用するとパートナーの感情、まして福利をケアできなくなる、あるいはケアしてはいるが適切な動機や行動と結びつかなくなることがあると想定している(pp. 59-60)。[53] うつ病の治療に広く用いられる選択的セロトニン阻害剤(SSRI)がそれである。SSRIはまさに情動や不適応な悲しみを鈍らせるものなので、他人の感情をケアする能力を同時に低下させることがあるのは驚くべきことではない

 だが、パートナーの感情をケアすることが真の愛に不可欠な要素であるならば、SSRIは定義上パートナーへの愛を変えるものとなるだろう。「生物学的な変化は愛の変化。原理の証明である」(pp. 59–60)。[54] しかし、以下で見るように、そのような証明はできていない。

  • III 病に面して変化する愛は愛ではない

 [54] 気分や能力の改善のために昼寝をするとしよう。あなたが寝ている間、パートナーがあなたから受ける〔薄い善である〕ケアの質は低下する。このとき、あなたが寝ていることは〔豊かな善である〕愛を変えると言うべきなのだろうか。そうではない。理由は単純で、その状況で配慮を求めるのは理にかなっていないからだ。 [55] これとSSRIの事例はいずれも、生物学的効果によって引き起こされる「ケアの」変化から「愛の」変化を推論するという誤りを犯している。[56] 愛はケアが堅固であることを要請するが、あらゆる状況を通して堅固であることは求めていない。そしてケアが求められない事例の一つが、相手が病気でありケアする能力を妨げる薬を服用している場合である。

 シェイクスピアの「変化に面して変化する/愛は愛ではない」〔「ソネット116番」〕をもじった本節のタイトルが示すように、相手が病という変化を被っても、パートナーは相手に対するケアを堅固に与えるべきだと我々の多くは思っている。[57] 妻がSSRIを服用して私へのケアが普段通りできない場合でも、私が引き続きケアすることを妻が求めるのは理にかなっている。これに対して、私のほうがSSRIを服用している場合に、妻が私に堅固なケアを求めることはまったく理にかなっていない。ここで、私はもはや妻を愛していないと結論するのは明らかな誤りだと思われる。この場合、病という変化に面しても、私の愛は変化しないと言えると思う。

  • IV 誰がケアする/気にするのか?

 以上が単なる言葉遊びに見える人もいるだろう。EarpとSavulescuが「愛」に言及せず「ケア」に話を限定していたならば、私には不満の余地がないように思える。そしてそれはある意味で正しい。というのもその場合、私の主張は事実上認められることになるからだ。[58] つまり「いま、ラブ・ドラッグは存在しない」。

 逆にEarpとSavulescuがより主張を強め、パートナー間のケアの質に影響するというだけで薬を「ラブ・ドラッグ」だと認めるのであれば、適当な文脈のもとではすべての薬が「ラブ・ドラッグ」になってしまい、この概念は無意味になってしまうだろう。EarpとSavulescuには時折この包括的解釈を示唆するような部分があるが(p. 62)、そうだとすれば私としては拍子抜けである。

 パートナーや親、子供、友人が重篤な病気になり、その病気ないし治療の結果として[59]、自分が以前と同じようなケアを受けられなくなったとき、そこから「相手は以前と同じように自分を愛していない」と推論するのは実に不適切な自己愛の表れだ。それどころか、病気や薬のせいで愛する相手からのケアが永遠に戻らない状況になっても、何かしらの愛は残っていると私は考えたい。ただこれはもしかする、生物学の手の届かないところ、肉体の境界を超えたところに愛の残滓があるという、ロマン主義的思い込みなのかもしれない。

アープ&サヴァレスキュ「愛とはなにか、そして愛は(たとえ原理的にでも)化学物質の影響を受けるのか? アレルへの応答」

 ここではアレルによる愛の定義を我々も採用し、愛はケアを要請するという点をさらに掘り下げていこう。『ラブ・ドラッグ』は確かにこの点を認めており、[95] かつSSRIのような薬はケア能力を損ねると論じた。[97] しかしアレルは、SSRIが「愛」に影響するという点を否定している。

 アレルはこのことを論じるために、「堅固に要求する」あるいは「豊かな」善と「薄い」善というペティットの区別に依拠している。真の愛とはつかの間の感情ではなくて、もっと安定した何かに根ざした特性ないし構えなのだ。あなたが富や美しさを失った場合に私が関係を捨ててしまうようであれば、私はあなたを愛していたとは言えない。[97] 愛は、相手の変化にかかわらず持続するものなのだ。

 ただし、富や美といった表面的な事柄はさておき、相手が暴力を振るうようになったり、絶えず信頼を裏切るような場合には、ケアをやめることも正当化されうるだろう。すると問題は、どのような範囲の変化であればケアを続けるべきなのか、その範囲を特定することだ。

 以上の一般的構図について我々はアレルに同意する。ただし、ケアとは何なのかについては見解の相違があるアレルは、ケアとは「薄い」善、すなわち誰かが誰かに提供する一種の利益だとしている。この意味でのケアを「ケア行動」と呼ぶことにする。[98] 他方、『ラブ・ドラッグ』におけるケアとは、パートナーのことを気にかけ、そのニーズや欲求に心を砕き、見返りを求めずに相手の福利を向上させようとする、ある種の傾向性である。これを「ケア傾向」とする。我々が「ケア」という言葉で言いたかったのは、まさにアリルの言う、「適切に動機づけられる」傾向だったのだ。

 我々が言いたかったことは、愛はケア傾向によって構成されているので、薬物がケア傾向を損ねる場合は、定義から言って愛も影響を受けうる(弱い主張)、さらには愛ではなくなりうる(強い主張)ということだ。SSRIがこの傾向を弱めるのであれば、愛にも影響するという弱い主張は十分裏付けられるだろう。問題は強い主張の方だ。

 [99] 以上の点を明確にすると、アレルが出した反例は説得的ではないように思われる。たしかに、昼寝している相手に「ケア行動」を期待するのは理にかなっておらず、それがないからと言ってその人の傾向が愛でなくなるわけではない。この理にかなわなさを説明するのに、「ケア傾向」の持つ三つの変数が役立つ。[100] ケア傾向を持つとは、(1)相手のニーズを、(2)自分の能力の限りをつくして(ただし見返りを期待することなく)、また(3)相手の全体的福利の促進に対して自分が負っている責任に応じて、追求する傾向をもつことだ。昼寝している人はそもそもの時点でケア行動をすることができないので、このケア傾向に反していることにはならない。ただし、パートナーが助けを求めると知りながら一日中昼寝しているような人は、相手に対する責任を果たしていないため(3)、[101] パートナーが不満を持つのも正統である。

 ではうつ病とSSRIの事例はどうか。アレルは、この場合にも、相手に質の高いケアを期待するのは理にかなっておらず、[102] ケア行動なしでも相手は自分を愛していると言えると論じた。この点は認めてもよいのだが、我々としてはこの状況が悲劇的なものであることを指摘したい。この事例では、パートナーはケア傾向を維持してはいるのだが、薬のせいでそれを実行に移すことができない。あなたはパートナーが最善を尽くしていると知っており感謝しているが、この状況に適応し、感情的な支えをパートナーに求めることはなくなっていく。[103] 繰り返すが、それでもパートナーのあなたへの愛(ケア傾向)は失われていないということに我々は同意してもよい。

 しかしここで、薬の作用がやや異なる場合を想定することができる。あるいは、同じ薬の効果について別の合理的な捉えかたがある。ここまでの見方だと、SSRIが阻害するのはケア傾向自体ではなくそれを実行する能力であった。だが、ケア傾向そのものを直接阻害していると考えることもできる。この場合、パートナーはあなたの感情を気にかける能力や、あなたの幸福を促進しようとする動機を失っている。この場合でも、「もし」薬がなければパートナーは依然としてケア傾向を持っていたはずだから、ここでも愛は影響を受けていないのだとアレルは言うだろう。

 そうなのかもしれない。[104] しかし、ある時点であなたが「薬のせいだとわかってはいるが、相手が自分を愛しているとは感じられなくなった」と思うようになったとしよう。薬がなければパートナーはあなたの感情を気にかけていたというのが反実仮想としては正しいとしても、そのことは、この現実世界におけるあなたの信念の妥当性を揺らがすものではないと我々は考える。あるいはパートナーの方が「薬のせいだとわかってはいるが、もうあなたのことは愛していないんだ」と言った場合、ここに概念的あるいは存在論的誤りがあると我々は考えない。

 [105] つまり、SSRIなどの薬が、ケア傾向自体を変容させうると判明した場合には、薬物が愛に影響を及ぼしうるという弱い主張だけでなく、愛はなくなりうるという強い主張も正当だと我々は考える。