えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

保守反動の中でのオランダの新哲学者、そしてブールハーフェ Cook (2007)

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【要約】
 仏蘭戦争と第三次英蘭戦争が勃発した1672年以降、ネーデルラントは保守反動の時代に突入し、保守派と自由主義者のあいだで深刻な分断が生じた。
 デカルト主義・スピノザ主義・コッケイウス主義などの思想は、私的には論じられていたが、公的な場面では激しい非難を浴びた。職を追われたカルヴァン派の聖職者バルタザール・ベッカーがその例である。主張を後退させるデカルト主義者も現れた。たとえばベルナルト・ニューウェンタイトは、若い頃はデカルト主義者であったが、後には体験知を重視しつつもデカルト主義を放棄し、自然神学を展開するに至った。
 逆に、もともとは宗教的な自然観を持っていたが、後に体験知を重視する自然研究へ向かった者もいた。ヘルマン・ブールハーフェがその例である。牧師を志していた若きブールハーフェは新哲学に接近しすぎたとされて道を閉ざされ、医学に向かった。善悪の観点から自然を判断するかつての思考は消え、事実を単純に記述することが重視された。

【目次】

第十章 思弁の拒否:単純なものへの固執

でも、どうやら哲学者のお歴々が異を唱える声が聞こえるようです。痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものである、とおっしゃっているようですね。とんでもない、それが人間であるってことですよ [……] 人間がその種族本来のなすがままの姿〔nature〕でいることは、少しもみじめなことではありません。――エラスムス『痴愚神礼讃』*1

 [378-1] 「災厄の年」1672年以降、ネーデルラントの経済、そして自信は一変し、十八世紀の半ばまで保守反動の時代が生じた。フランス嫌悪から、それまでの統治者であった自由主義的な(州)議会派が非難された。改革派の敬虔な活動家は、ルイ十四世率いるカトリック帝国主義や、国内に広がる過度な知性主義や無神論に対する防波堤を自任した。その中で若きオラニエ公ウィレム三世が総督となる。全体としては宗教的教義よりも政治を優先させたものの、自身の支持者である宗教的保守派を怒らせないよう細心の注意を払っていた。こうしてネーデルラントでは、一方では保守派、他方では多くが自由主義だったアムステルダムの「統治者」およびその同盟者たちのあいだで、深刻な分断が生じた。
 この新秩序の中で、自然哲学者や医師たちは、[379-1] 様々な種類の物質主義思想の持ち主だと(正しくも)見なされ、また道徳や公的秩序を損なうとして激しく非難されることもあった。

新哲学の苦境

ライデン大学*2

 [379-2] スピノザ主義、デカルト主義、コッケイウス主義といった立場は一見難解だが、新秩序が与える影響は明確だった。ライデン大学にはウィレム三世が越権的に介入し、すべての教授の任命はウィレムの承認を必要とするに至った。1676年、ウィレムによって四度も学長として選ばれた保守的な神学者フレデリック・スパンヘイム(Frederik Spanheim)が、まったくの誤りだとされる命題のリストをウィレムに持ち込むと、ウィレムは当該命題の講義や出版における公表禁止を大学運営陣に命じた。対象となった教授たちの反対運動のすえ大学運営陣も対応し、結局80歳近い神学者アブラハム・ハイダヌス(Abraham Heidanus)が全員の身代わりとして免職処分となった。
 その後1689年まで神学部は、ユトレヒトにおける最も有名な反デカルト主義者ヴォエティウス(Gisbertus Voetius)の派閥の手におちた*3 当初こそ、学生たちや一部教授(ボンテコなど)がスパンヘイムらの講義を妨害し、またデカルト主義なども個人指導や医学部においては論じられていたが、公的な言論をめぐる争いでは保守派が勝利した。

非難されるデカルト主義者:バルタザール・ベッカー

 [379-3] 国全体でも、デカルト主義などの支持者は公的な場に現れるとすぐに攻撃された。[380-1] その一例が、1690年代初頭に職を追われたカルヴァン派の聖職者、バルタザール・ベッカー(Balthasar Bekker)である。
 1650年代にデカルト主義に傾倒したベッカーは、哲学と神学の基盤は異なるのだからデカルト主義は宗教を脅かさないという標準的なデカルト主義的立場をとっていた。しかし、1670年に出版した成人向け教理問答書〔『成熟した者の硬い糧』(De Vaste Spyse der Volmaakten)〕は、ライデン大学の神学教授ヨハネス・コッケイウスの立場に接近したために論争を引き起こした(コッケイウスの神学の根底には神と人との契約という概念があり、また聖書解釈において新しい批判的方法をとっていた。コッケイウス主義者はアリストテレス的用語法を拒否したため、デカルト主義のような新哲学の見解を自由に支持することができた)。1680年代前半には彗星の出現を巡る論争に参加し、ピエール・ベールなどの新哲学支持者と同様、彗星は何かの前兆でも超自然的な事象のしるしでもないと主張した。
 1680年代後半には、魔女は迷信だと示す仕事に取り組んだ。デカルト主義によれば、物質と精神は人間においてしか混ざり合わないので、肉体を持たない悪魔が自然界に介入することはできない。もちろん悪魔の存在自体は聖書から明らかだが、悪魔は神によって地獄に閉じ込められているとされる。あるいは、悪魔や悪霊への言及は比喩であるとされる。[380-2] こうした自然主義的な世界観を公にした『魔法にかけられた世界』(Betoverde Weereld, 4 vols., 1691–1693)は、無神論につながるとして最初の二巻が出た時点で大騒動を引き起こした。アムステルダムの長老会(ボエティウス派とデカルト-コッケイウス派で分断していた)は、議論の末、ベッカーの立場を「明確化」(事実上は「修正」)する文書を作成し、ベッカー自身もこれに署名した。だが北ホラント州教会会議は、ベッカーは説教職にふさわしくないとし、[381-1] さらには聖餐執行停止処分とした。ベッカーは屈せず残りの二巻を出版し、『魔法にかけられた世界』は啓蒙時代初期の古典的著作となった。
 1694年、教会実務においてボエティウス派とコッケイウス派を平等にあつかうようウィレム三世がホラント州議会に働きかけ、事態は沈静化した。十八世紀初頭までに、改革派内部での対立は激しさと重要性を失っていった。

スピノザ主義

 [381-2] とはいえ、あくまで十七世紀後半から十八世紀初頭においては、新哲学諸派は脅威だと感じられていた。「デカルト主義」よりさらに悪者扱いされたのが「スピノザ主義」である。スピノザは神と自然と同一視したことで、一般的な宗教的信念を揺るがせた。1670年代中盤からスピノザ自身はハーグで教会会議による監視状態にあったが、友人たちが1678年に『エチカ』を密かに出版すると大きな反響を呼んだ。1680年代には、多くのオランダの哲学者や神学者が、スピノザに影響を受けた非公式の地下活動を懸念するに至っていた。

後退するデカルト主義者:ベルナルト・ニューウェンタイト

 [381-3] このようななか、一部のデカルト主義者は立場を後退させた。その好例が医師ベルナルト・ニューウェンタイト(Bernard Nieuwentijt)である。
 ニューウェンタイトは1654年生まれ、75年にライデン大学に入学したが、まもなく退学処分となった。デカルト主義を支持したためと思われる。代わりにユトレヒト大学で法学と医学を学び、[382-1] プルメレントで医師および政治家として活躍した。優れた数学者でもあり、無限小の計算方法を発展させ、ライプニッツの微積分解釈をめぐる論争に加わった。
 しかしある時点でニューウェンタイトは、デカルト主義によって自身が無神論に近い見解に陥っていると判断し、宗教の擁護へと立ち返った。事実の調査への関心は維持しつつもデカルト主義は放棄し、自然神学的な著作『無神論者および不信仰者を説得するための世界の観察の正しい活用法』(Het regt gebruik der wereltbeschouwingen ter overtuiginge van ongodisten en ongelovingen aangetoont, 1714)を著すと、大きな人気を得た。[382-2] 神の存在は創造物の中に示されるという自然神学の基本的な議論は古代からあり、当時もジョン・レイを筆頭に新たな装いを与えられていた。ニューウェンタイトも、自身が好む新科学の証拠によってデカルト主義やスピノザ主義の形而上学的思弁を論駁できると考えたのだった。
 ニューウェンタイトは、様々な著者が示す実例や、空気ポンプやレンズを用いた自身の実験から、次のような〔認識論上の〕立場に至った。自然に関する確実な知識を得るには、基礎的な経験から得られた一般化を、実験によって確証する必要がある(数学もこのように経験的に導出される)。演繹は、せいぜい人間の側の創意工夫を示すものにすぎない。また、聖書はニューウェンタイトの時代の〔自然学上の〕発見を先取りしていることから、その構成過程には超自然的知識(啓示)が寄与していたと考えられるため、聖書を文字通り解釈することは妥当である(コッケイウス派との対立点)。[383-1] さらに、知識の発展には〔証言を〕信じることが不可欠であり、他人の実験報告と聖書の記述は〔いずれも証言として〕同じように信頼できる。ニューウェンタイトは、創造物を百科事典レベルの詳細さで示すことで、それが計画と目的を持った創造の証拠であることを証明できると考えていた。

ヘルマン・ブールハーフェの教育

 もともとは自然について宗教的な見解をもっていたが、後に〔価値を帯びていない〕自然理性による自然研究を強調する見解へ向かった者もいた。ヘルマン・ブールハーフェがその例である。哲学と神学の学生だったころは、自然哲学の成否をその道徳的含意によって判断していた。しかし徐々に、事物のありかたを知るために形而上学ではなく経験と観察に頼るようになり、原因についての思弁は不要どころか人を誤らせると多くの生徒に教えた。

初期の教育

 [383-3] ブールハーフェはもともと牧師を志しており、牧師であった父ヤコブスと、知人でライデン大学の正統派神学者ヤコブス・トリグランディウス(Jacobus Triglandius)のはからいにより、[384-1] ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、アラム語の教育を受けた。*4
 1683年、14歳でライデン大学に哲学および神学の学部生として入学し、ヴォルフェルト・センゲルト(Wolferd Senguerd)に「論理学、形而上学、地球儀の使用法、政治学」を学ぶ。
 センゲルトは形而上学に反対する議論を展開し、同僚のデカルト主義者ブルハルト・デ・フォルダー(Burchard de Volder)が導入した実験的な自然哲学を支持していた。1679年には技術者ヨハン・ヨーステン・ファン・ムッセンブルーク(Johan Joosten van Musschenbroek)と組んで新型の空気ポンプを制作し、これはのちの多くの空気ポンプのモデルとなった。ブールハーフェがライデンに来たころには、ガッサンディの真空説と原子論の擁護や、様々な実験的調査に関する論争の集成を行っていた。

反ガッサンディ演説

 [384-2] だが1689年、古典語の教授ヤコブス・グロノヴィウス(Jacobus Gronovius)は、ブールハーフェにガッサンディを攻撃する公開演説を行うよう命じ、この演説は金メダルを得た。これはエピクロスについての新たな理解を真剣に検討せず、よくある敬虔的な観点から批判する演説だった。エピクロスの物質主義的な教義は、ガッサンディが言うような高潔なものではなく、あらゆる放蕩や罪へとつながるものだとされる。次に、この倫理観の基礎となる自然哲学が検討される。[385-1] すなわちガッサンディによれば「精神とは原子の多様な構造から成るかたまり」である。最近この学説を復活させている人々(ホッブズやスピノザをほのめかしている)は不滅の魂の存在を否定し、欲求を次々に満たすことが永続的な幸福なのだと教えている。だがこうした見解は「忌まわしく罪深い」。最後に、ライデンでは幸いにも真の宗教が守られているという愛国的な調子で演説は終わる。[385-2] ここで重要なのは、物質主義という自然哲学が道徳的生活に対する帰結によって測られている点である。ここでは、悪は偽でもあるという古典的な「正しい理性」の原理が用いられている。
 [385-3] ブールハーフェはなぜ恩師センゲルトを裏切りガッサンディ批判を行ったのだろうか。自伝的記録によると演説の二年前(1687年)には数学に魅了されていたらしく、演説時にはすでにデカルト主義に傾いていたのかもしれない。[386-1] また、演説翌年(1690年)の哲学博士論文『精神と身体の区別』(De distinctione mentis a corpore)はエピクロス、ホッブズ、スピノザの一元論を繰り返し批判しており、演説時点でもデカルト的な二元論によって物質一元論を論駁することを考えていたように思われる。ただし〔さらなる可能性もある〕。博士論文の指導教員となったデ・フォルダーは控えめだがスピノザの擁護者でもあった。また、ブールハーフェが尊敬していた医学部教授リューカス・スハフト(Lucas Schacht)にもスピノザ的なところがあった。すると、演説前の時点でブールハーフェは〔スピノザ主義に接近していた可能性がある〕。演説を依頼したグロノヴィウスは、ブールハーフェに反物質一元論を公言させることで私的にも正道に戻したかったのかもしれない。
 [386-2] いずれにせよ、この演説はブールハーフェが「正しい理性」に訴えて自然哲学を判断した最後の機会となり、その後は感覚と自然理性のみで判断するデカルト自身の立場に移行した。これにはデ・フォルダーらの影響があったのかもしれないが、回想は別の要因もあげている。すなわち、次に神学博士の取得を目指していたブールハーフェは、教父の著作をローマのクレメンスから年代順に読みはじめ、その「単純さ」に感動し、形而上学的な論争のすべてに嫌気がさしたという。

医学研究と神学の挫折

 [386-3] さらに別の研究も形而上学からの離反を促した。卒業後の生活のために、ブールハーフェは90年夏から91年まで大学図書館ではたらき、自由主義者イサーク・フォッシウス(Isaac Vossius)が遺した書籍や写本の目録作成を行った。同時に、[387-1] 医学を学んだり数学を教えたりもした。医学書もヒポクラテスから年代順に読んでいき、シデナムには特に感銘を受けた(フォッシウスのコレクションがこれを可能にした)。解剖学・植物学・薬物学の著作も読んだが、大学の講義にはほぼ出席せず、自前で動物の解剖や植物採集、化学研究に没頭した。自信をつけたブールハーフェは1693年夏にハルデルウェイク大学に赴き医学博士号を得たが、ライデンでの神学博士取得の計画は持ち続けていた。
 [387-2] しかしライデンに帰ると事件が起きた。自伝によれば「ある人物が彼〔ブールハーフェ〕について誤った意見を形成しており、彼は無実のうちに破滅した」。〔この事件の背景を説明しよう。〕医師として帰ってきたブールハーフェは当然、自然哲学への共感を会話で示していたはずだ。医師は物質主義の最前線にいる存在だった。また当時はライデンの医師がニュートン主義を導入しはじめた時期で、ブールハーフェも一時期これに引き付けられていた。1691年には [388-1] スコットランド人アーチボルド・ピトケアン(Archibald Pitcairne)がライデン大学医学部に招かれ、学生にニュートン主義を奨励した。
 しかしながら1693年夏、ピトケアンは休暇のために帰郷したあとライデンに戻らず、大学運営陣を激怒させた。ピトケアンは政治的にも宗教的にも総督ウィレム三世とは反対の立場におり、ライデンを気に入らなかったのだろう。*5 また、ニュートン主義には宗教的保守派の懸念を招く部分があった〔ので、教え続けたくなかったのだろう〕。すなわち、数学の重視、コペルニクス主義、原子論と真空、機械論の自然界に対する全面適用、そして形而上学的思弁の拒否と実験の重視である。デカルト主義やエピクロス主義とは異なり、創造主である神は自然の体系とは区別されつつもその中に存在するという立場だったが*6、これは自然以外は研究するに値しないという立場だと誤解されやすかった。
 [388-2] このような時期にブールハーフェはライデンに戻ってきた。後になって、ブールハーフェの同僚は次の逸話を語っている。ライデンへ向かう船の中、同乗者たちと会話していたブールハーフェは、スピノザへの非難を耳にした。そこでブールハーフェは言った。「実際にスピノザを読んだことはあるのかね?」。会話はそこで途絶えたが、同乗者のひとりがブールハーフェに名前を尋ね、それをノートに書き留めた。そしてライデンについた後、ブールハーフェは隠れスピノザ主義者だという噂が広まった――これが、ブールハーフェの神学の道を閉ざしたとされる事件である。[389-1]
 [389-2] その後の10年間、ブールハーフェの活動はライデンにいたこと以外ほとんど何も知られていない。この期間は医師としてはたらき、患者の診察、数学の指導、化学実験、そして医学書や宗教書の読書に没頭していた。

ライデン大学医学部へ

 1690年代、ライデン大学医学部は人事を巡ってウィレム三世としばしば対立した。ピトケアンが去ったあと教授は2名しかおらず、なんとか新たに3名を雇用したがいずれも魅力的な人物ではなかった。1697年までに古株の2名も死去してしまい、学生数は減少し財政危機が生じた。
 [389-3] 1701年、学生数増を目指して講師として雇用されたのがブールハーフェだった。講師は古典を教示する役割で、この時点ではブールハーフェはあくまで文献と哲学の知識を買われた形だった。ブールハーフェは今回は哲学や神学上の論争を慎重に避け、就任演説ではヒポクラテスの研究を推奨した。ブールハーフェは今や、究極原因に関する思弁よりも事実の追求を支持し、[390-1] また善悪の観点から自然を判断することに断固として反対する。自然の一般原理から治療法へ進む者たちは「想像の産物」のうえに医学を置いており、患者に害をもたらすだけである。むしろヒポクラテスに倣って「事実の探求のための唯一の指針」として自然に従うべきであり、そのためには「あらゆる党派性から自由」になり、「実際に見たものを純粋に学び、受け容れ、相互に関連付け」なければならない。事実の報告にあたっては記述的な詳細に集中し、「主題を簡潔かつ明晰に提示する単純な文体」によってそれを強化しなければならない。事実のみが「議論を決するのであって、その逆ではない」。

  • [図 p.391:講義するブールハーフェ(省略)]

 まずは事実から出発し、その後にはじめて自然理性を用いるという方法を、ブールハーフェの残りのキャリアを通じて一貫して支持した。ブールハーフェの教育はかなり成功し、ライデン大学当局はポストが空き次第医学部教授へ昇進させることを約束した。この約束を記念した演説「医学における機械論的方法の有用性」(1703)も、上述の方法を支持するものである。この演説ではまず力学(機械学)が称賛される。しかし力学と言えども、まずは物体の作用の観察からはじめなければならなかった。その後、幾何学的議論によって「感覚のみでは不可能だった数多の発見がなされた」。この両方の方法から、人体と宇宙の本性は [391-1] 同じだと明らかになった。続いて人体にかんする多くの事実が述べられる。〔観察や実験により〕マルピーギらは、人体は単純な管と「機械的部品」(腺や筋肉)により成り立つと示した。ヒポクラテスも同じ発見をしていた。 [392-1] 必要な事柄を説明するのに、生得的力や超自然的力を持ち出す必要はなかった。
 [392-2] だが、精神が身体に影響を及ぼす能力についてはどう考えればいいのか。このような反論をする者は、精神が身体とは別のものだと想定している。しかしながら、両者の関係について十分な説明ができたものはいまだ誰もいない。そうした関係は感覚で捉えられず、したがって我々の理解を超えているからだ。また、仮に精神が身体を制御できるのだとしても、「思考能力が身体に影響を及ぼすやいなや、そこで生じるあらゆる効果は完全に物体的なものとなる」のだから、第一原因が物体的なものであるかどうかはどうでもよい。医師に必要なのは形而上学ではなく、身体に生じている作用を知ることなのである。1708年に出版された『医学教程』の冒頭でも同じ論点が繰り返されている。

『医学教程』と『箴言』

 [392-3] 『医学教程』の内容はそれ以前の医学教科書とは大きく異なっている。医学を五つの部分、すなわち生理学、病理学、徴候論、健康論、治療論に分類するという基本構成は引き継がれた。しかし生理学はかなり独特である。[393-1] 四元素や四体液、形相因や目的因、自然・動物・精神精気などにはまったく言及せず、理性や情動についても触れない。その代わり、知るべきことをすべて観察可能な固体と液体の観点のみから説明している。この実験的生理学部分が本書の中心であり、残りは簡潔に、しかし物質主義的に扱われている。*7  序論でも医学の歴史を振り返ったあと、医学は観察された事実の集積によって確立されたものでありこれは確実だが、原因は理性の助けによって後から割り当てられたもので不確実だと語られている。この観点からヒポクラテスとハーヴェイが高く評価され、ガレノスは手の込んだ推論によって古代医学を歪めたとされる。
 [393-2] この見解は、臨床医にとっては治療を単純化するものだった。ブールハーフェは、個々の症状はそれぞれ個々の生理学的原因を指し示すと考えており、同じ症状を示す人は同じ原因で同じ病気にかかっていると考えた。従って、同じ症状を示す人には誰であれ同じ治療(身体的な病因の是正)をするべきである。[394-1] これは、気質と環境の違いにより病因は多様であり治療も異なりうるとする古典的見解と対立していた。治療に関して後に出版された教科書は『箴言』(Aphorisms)と題された。これはタイトルだけでなく内容もヒポクラテスに倣ったもので、病因や治療の仕組みなどの説明はなく、成功した治療例を記述するものだった。
 [394-2] ブールハーフェの思想には霊魂不滅や自然のデザインの余地がないわけではなかったが、1700年以降こうしたことは公には語られなかった。感覚を通じて神に関する証拠を集めることはできないので、こうした事柄について知ることはできない。これは、学生時代の保守的な神学的・哲学的立場からはかけ離れたものであった。

植物学教授への就任と努力

 [394-3] 1709年、約束にしたがってブールハーフェは最初に空いた植物学教授の職を継いだ。だがブールハーフェは植物学に通じていたわけではなかったので、この人事は学会を驚かせた。おそらく本人にとっても予想外で、就任演説では上述の事実重視のアプローチを再び強調してはいるものの、植物学に関する深い理解はほとんど見られない。実際、この職にはもっと適任な人物が多くおり、後任人事は様々に噂されていた。[395-1] しかし、長年ブールハーフェと親交のあったライデンの有力者ヤン・ファン・デン・ベルク(Jan van den Berg)の働きかけにより、僅差でブールハーフェが選ばれた。外から見れば、明らかに地元の利害が優先されていた。
 [396-1] ブールハーフェはライデンの評判をこれ以上悪化させまいと決意し、植物学において自分の支持する方法に従って懸命に働いた。まずは植物園の目録作成に力を入れ、着任翌年にはこれを刊行した。植物学上の意義は平凡だが、これまで専門的な訓練を受けていない人物の成果としては優れている。また前任者たちの関心を引き継いで花への関心を高めていった。前前任者であったパウル・ヘルマン(Paul Hermann)の著作『オランダの植物園』(Paradisus Batavus, 1689)は花のみで植物を分類していたが、この著作の編者であったウィリアム・シェラード(William Sherard)は、ブールハーフェとセバスチャン・ヴァイヤン(Sébastian Valliant)を引き合わせた。その結果、花の各部位は動物の生殖器に比するというヴァイヤンの見解をブールハーフェも支持するようになった。この見解は、のちにブールハーフェに師事したリンネによって大きな影響力を持つようになる。さらに、回廊の標本コレクション充実のために、VOC、WIC、海軍に協力を要請し、自分のコレクションも寄託した。そして最も重要なことに、ヨーロッパ中の植物学者たちに種子や標本を送ってもらえるよう書簡を送り、巨大なネットワークを築き上げた。

  • [図 p.395:18世紀初頭のライデン大学植物園(省略)]

*1:要約者注:32(訳文は沓掛訳、八二頁(中央公論新社))。思弁的な哲学者と自然の探求を重視する態度の対比を示す。

*2:要約者注:以下、節内の小見出しは要約者による

*3:要約者注:[蘭] Gjsbert Voet。1634年よりユトレヒト大学教授。アリストテレス-スコラ的な正統主義神学と教会規律に則った敬虔な生活を重視し、コッケイウス主義やデカルト主義を批判した。

*4:要約者注:以下、著者は、Lindeboom (1968) に収録されたブールハーフェの自伝的記述を適宜利用している。これには部分的に邦訳があり、阿知波五郎 (1969) 『Herman Boerhaave 1668–1738: その生涯、思想、わが蘭医学への影響』(緒形書店)の第六章として翻訳されたAn Account of the Life and Writings of Herman Boerhaaveの第一部が、この自伝的記述をかなり多く引用したものになっている。

*5:要約者注:当時は名誉革命の結果ウィレム三世がスコットランドをも統治していた。政治的には、ピトケアンはこれに反対するジャコバイトに傾いていた。また宗教的にも、スコットランド長老派(ウィレム三世の支持基盤である改革派と同じカルヴァン派系統)に批判的で、のちに神学者と激しい論争を繰り広げた。

*6:要約者注:デカルト主義では神は自然世界を超越しているが、ニュートン主義では神は自然世界とは異なりつつも自然世界に内在(遍在)している。これはそもそも神と自然世界が同一(汎神論)だとするスピノザ主義とは異なるが、両者の距離は近いと捉えられよく論争を呼んだ

*7:要約者注:坂井建雄・澤井直 (2012). 「ブールハーフェ(1668〜1738)の『医学教程』」, 『日本医史学雑誌』, 58(3): 365–372. に目次および主要命題の日本語訳があり、本書の雰囲気を知ることができる(p. 365)。