- McGee, A. (2016). Is there such a thing as a love drug? Philosophy, Psychiatry, & Psychology, 23(2), 79–92. https://doi.org/10.1353/ppp.2016.0006
【要点】
- 近年、一部の著者ら(Brian Earp、Julian Savulescu、他)は、愛のエンハンスメント(またはディスエンハンスメント)目的での薬物による介入を積極的に擁護している。
- 著者らによると、通常「愛」に結びつけられる複雑な感情・動機・愛着の根底には、繁殖の成功を促進するために進化した神経化学的・行動的サブシステムがある。だが、前者が後者に還元されるか否かについて、著者らは曖昧である。
- この曖昧さは、著者らによる愛の定義に起因する部分がある。愛は依存の一種だとされており、通常は愛とは分類されない多くの事例が愛とされている(たとえば、子供に対する制御不能な性的魅かれ)。
- このような考えかたは、愛と依存の神経基盤がほぼ同一だという科学的知見から来ている。だがそうだとしても、通常我々が愛という概念を適用する際には、神経基盤が容易に特定可能な一定の感情だけでなく、その後の様々な行動や状況をも考慮している。前者の基準のみを考慮する立場が愛の生物学的還元にあたる。これを明確に避けて、後者をも含む標準的な基準に合致するもののみを「愛」と呼び、その他の不健全なものを「依存」としたほうが、著者らの目的にかなうはずだ。というのも、著者らは薬による介入に伴う愛の医療化や真正性の欠如を懸念しているが、不健全な依存のみに介入するという話であればこうした懸念は生じにくくなるからだ。
- 愛の非還元主義はエンハンスメントに重要な含意をもつ。私たちが通常愛と呼ぶ感情は、その対象と原因が一致している。これに該当しないエンハンスメントでは真正性の懸念が生じる。点鼻薬によるエンハンスメントはこの懸念が強い。ただし、真正性に関する判断は当該のカップル自身の考えに依存するので、エンハンスメントの是非は最終的には当人たちに委ねられるべきであって、限定的状況でも義務化するべきではない。
[79l] 近年、一部の著者ら(Brian Earp、Julian Savulescu、他)は、愛の増強・減弱の目的での薬物による介入を積極的に擁護している。そのなかで著者らは、[79r] 愛の医療化という懸念に対処しようとしている。これは具体的には、(a)愛についての生物学的還元主義につながるという懸念、および(b)介入の結果、愛が「真正」(authentic)なものでなくなるという懸念である。
この論文では二つの主張をする。第一に、著者らが愛だとしている事例の多くは愛の事例ではない。このため、「愛の」医療化の懸念は実際はそこまで大きくないのかもしれない。ただし第二に、著者らは真の愛を依存と変わらないものであるかのように描いており、こちらは愛の医療化につながる恐れがある。
1. 基本的主張
[80l] 著者らによると、通常「愛」に結びつけられる複雑な感情・動機・愛着の根底には、繁殖の成功を促進するために進化した一連の神経化学的・行動的サブシステムがある(Savulescu & Sandberg, 2008; Earp et al., 2012; Earp et al., 2013)。[80r] だが、愛とサブシステムとの関係は明確に説明されていない。著者らは愛をサブシステムに還元しないと示唆しているものの、どういう点で還元されないかを説明していない。
〔愛が還元可能なのか不可能なのか曖昧であるという〕この問題は、著者らの愛の定義に起因する部分がある。すなわち、その定義には、通常は愛とは分類されないものが多く入っている。例えば、著者らは「子供に対する制御不能な性的惹かれ」を愛の一種とみなしている。[81l] だがこの見方はかなり普通ではない。こうした惹かれは、子供への愛の表現とは両立しないと多くの人が思うような特徴を示すからだ。「愛」のような言葉が用いられる際の基準は、一定の感情だけでなく、その後の行為や行為を取り巻く状況にも関係している(Kenny, 2003)。愛のこうした側面を無視することは、愛の医療化を助長する可能性がある。
逆の問題もある。すなわち、愛と呼ぶのが適切な事柄が、通常は愛には適用されないようなカテゴリーに入れられている。つまり [81r] 著者らは、愛を依存の一形態だとしている。愛の根底には依存と同じ神経解剖学的・神経化学的プロセスがあるからだ(Earp, Wudarczyk, Foddy, & Savulescu, 2017)。この考えだと、愛・(飲食や性への)欲望(appetite)・弱い依存はすべて同じものになる。
愛に関するこうした広い定義は、ラブドラッグ擁護論にとって有利な部分と不利な部分を併せ持つ。利点は、神経学的に操作可能な愛の概念に焦点を当てられることである。欠点は不必要な懸念を招くことだ。正常な欲望や愛を(弱いとは言え)依存とみなすなら、たしかにこれは愛の医療化につながりかねない。だがこの懸念は単に分類のおかしさから生じているのかもしれない。例えば、[82l] 愛は特定の対象をもつとされるのが普通だが、欲望には特定の対象がない(空腹や渇きのような欲望は食べ物一般や飲み物一般に関わる)ため(Bennett & Hacker, 2003)、愛を欲望のように捉えることは難しい。
2. 「愛」の意味の決定について
[82r] だが、愛が何を意味するべきかについて誰が決められるのか。定義の問題についてはすでに査読者が指摘しており、これに対して著者らは、愛の意味を独占して決められる人などいないと反論している。[83l] しかし「愛」に標準的な意味と周縁的な意味があることは確かであり、標準的な用法には重要な制約機能がある。
ただし、科学的発見が概念の再構築や適用範囲の拡大を促すことはありうる。[83r] 愛と依存に関連する神経基盤がほぼ同じだというのが正しいとして、愛を単なる弱い依存と理解すべきなのだろうか。これは議論の余地がある。特定の水準に達した反応や行動のみを依存的行動と捉え、[84l] 弱いものは依存とは呼ばない立場もありうる。また愛を依存の一種とするとしても、二種の依存を区別できる。すなわち破滅的な依存(治療の対象)と非破滅的な依存であり、これはもともとの「依存」と「愛」に対応する。このような区別があれば、〔破滅的依存は「愛」ではないので、〕「愛の医学化」という懸念を避けることができる。[84r] さらに言えばこの場合、愛を依存の一種とすることは混乱を招くだけなので、このような分類をするべきではない。
[85l] 著者らが標準的な用法の役割を見逃しているという論点に戻ろう。ここで「芸術」を考えてみる。この概念は明らかに論争的だが、システィーナ礼拝堂天井画が芸術であるか否かについて真剣に議論することはできない。[85r] このような明確な事例(広範な合意がある事例)が存在しなければ、我々はそもそも一体何について議論しているのか分からなくなるからだ。[86l] 著者らは「愛」の中核事例を否定する気はなく、より広い範囲の事例に適用しようとしているだけなのかもしれない。しかしそうだとしても、適用範囲には依然として重要な制約が認められなくてはならない。
[86r] 芸術に関する議論では規範的考慮事項が介入してくる。すなわち、特定のものしか芸術と呼ぶ「べき」ではない。同様のことが愛にもあてはまる。子供に対する制御不能な性的惹かれや、(より議論の余地があるが)虐待的パートナーのもとに残り続けることなどは「愛」と言うべきではない。
規範性という概念の重要なポイントに次のものがある。二人の人間の脳状態が完全に同一でも、愛の対象として適切なものは限られているために、愛しているのは片方だけだと主張しうる。たとえば、一方の「愛」の対象がマネキンである場合を考える。[87l] この時、「マネキンに恋することは不可能だ」と反論するのはミスリーディングである。より精確な反論は、我々の愛概念にすでに標準的に含まれている規範的次元を明確にする言いかた、すなわち「マネキンへの「愛」を我々は愛とは呼ばない」である(その理由の一部は、マネキンは愛を返す存在ではないからである)。[87r] こうした規範的考慮事項を無視すると、生物学的還元主義に陥る危険や、私たちが愛と呼ぶものとは異なる何かについて語ることになる危険にさらされる。
人がある感情を持つかどうかは神経基盤によって決まるという還元主義は誤りである。Kenny (2003) が指摘したように、高所への恐怖は、決して高いビルに登らないという事実によっても示される。だが高いビルに登らないという行為には、恐怖に通常伴うような身体反応は伴わない。
著者らは、あくまで生物学的な意味での愛について論じていると反論するかもしれないが、そのような反論はやめたほうがよい。還元主義への懸念を増し、それが愛の医療化への懸念を強める一方だからだ。著者たちが愛だと言っている事例の一部を不健全な脅迫観念として見るならば、それに対する薬物介入に関して、医療化や真正性に関する懸念ははるかに少なくなるだろう。
一定の感情を抱いた後の行動やその感情をとりまく行動は、「愛」という語を適用するための基準となる。[88l] だからこそ、性行為の後にパートナーを殴る人や衝動的な行為をする小児性愛者に対して、我々は「愛」という言葉を用いない。
3. 愛のエンハンスメントのための薬物使用への含意
以上の議論は、愛のエンハンスメントのための医療的介入にも示唆を与える。著者らは、オキシトシンやドーパミンの放出という結果が同じであれば、どのような手段に訴えても違いはないと考えている(Earp et al., 2015)。[88r] だがこれは必ずしも正しいとは言えない。愛することの一部には、自分の感情が愛の対象によって引き起こされるということが含まれる。言い換えれば、我々は愛の対象と原因との一致を求める。したがって、パートナーの隣りにいる時に抱く感情が、オキシトシンの点鼻薬によって引き起こされている場合、人はその感情が真正なものだとはみなせないだろう。同じ目的を達成する場合でも、性行為をするとかカップルセラピーを受けるといった方法ならこの懸念はない。[89l] では、私が自分に点鼻薬を使うのではなく、既存のパートナーが私に点鼻薬を使うのではどうか。しかしこれは、感情の直接的原因(薬物中の化学物質)と間接的原因 (スプレーを投与する人物)を混同しているにすぎない。
私たちは人に愛してもらうために色々な行動を取るが、その場合にも〔わざわざ〕愛の「直接的原因」は言葉や振る舞いなどであって当人は間接的原因だと言うのは混乱しているだろう。点鼻薬に関して真正性の問題が生じるのは、自然な愛の場合には問題にならない「直接的/間接的」の区別がスプレーの場合には適用されてしまうという点にあるのだ。
以上の反論は決定的ではない。著者らは、点鼻薬はあくまで「きっかけ」を与えるものだと言うことができる。すなわち、[89r] 介入当初は確かに対象と原因が乖離しているが、介入の目的は両者が一致した感情が自然に生じるようにすることなのだと主張しうる。だが、これは真正性に関する別の問題を生じさせる。点鼻薬の定期的投与が必要な期間が不定の場合、パートナーが愛の(将来も含めた)真正性を疑うことは十分に理にかなっている。これは、定期的な性行為によって自然な感情の発生を促す場合とは事情が異なる。性行為はそれ自体が原因と対象の一致した愛の表現でありうるが、スプレーはそうではないからだ。
結論
[90l] 以上は愛のエンハンスメントに対する決定的な反論ではない。本論文が指摘した様々な問題に応える形でのエンハンスメントは可能だろう。まず、著者らが提案する介入の少なくとも一部については、愛への介入ではないと理解すれば、「医療化」や「真正性」といった懸念を解消できるだろう。愛のエンハンスメントと呼ぶのが適切なもの、すなわちロマンチックな関係のなかで行われるものの場合でも、本論文の反論は決定的ではない。何が真正な愛とみなされるかはカップルの当人にも依存するからだ。真正性に関する問題はカップル自身に委ねるべきであって、限定的な状況下では点鼻薬使用が義務だという著者らの考えは認められない(Earp et al., 2012)。