- Wright, J. P. (1991). Boerhaave on Minds, Human Beings, and Mental Diseases. Studies in Eighteenth-Century Culture, 20(1), 289–302. https://doi.org/10.1353/sec.2010.0308
【要約】
- 心身問題に関して、ブールハーフェは完全に実体二元論者だった。実体間の関係についてはライプニッツ的な並行論を取った。
- 医学の対象としては心身合一体としての「人間」が重視された。医師は身体を変化させることで、人間全体を変化させる。
- また、精神の疾患に対して並行する身体的原因を直接割り当てられるようになり、それを治療すればよいとされた。つまり、医師は精神的原因を無視してよい。
- 精神はあくまで思惟実体であり、身体的生命の原理ではない。このため、生命機能の正常・異常の説明に精神はまったく関係しないとされた。
- こうした特徴のために、ブールハーフェは明らかな二元論者だったのにもかかわらず、唯物論を準備したと後に捉えられるようになった。
ブールハーフェは、十八世紀初頭の最も重要な形而上学者の一人と見なすことができる。弟子のハラーが出版した医学理論に関する講義には、心身の本性および相互関係、内的感覚、生物学的過程の本性、科学方法論など、様々な哲学的主題に関する議論が含まれており、この講義は何度も再版され翻訳された。またブールハーフェの影響力は、その学生の多さからも推し量られる。この論文では、特に精神と物体の関係および精神病に関する見解を検討する。
1. ブールハーフェの二元論
ブールハーフェは厳格な心身二元論を支持していた。このことは博士論文『精神と物体の区別』(1690)から明らかである。精神は単純で部分を持たないが、物体は部分を持つというのが、心身の区別の根拠であった。また、Gerard de Viriesの次のような議論を称賛している。すなわち、精神には自己意識があるが、物体にはありえない。物体は自分とは別の何かに働きかける(たとえば、運動させる)ことしかできないからだ。
精神と身体は全く異なる本質をもつという主張は、『医学教程』でも重要なテーマになっている(命題27)。物体の本性は延長と不可侵入性であるが、精神の本性は意識あるいは思考であり、両者のもつ属性にはまったく共通点がない。また、精神と物体にはまったく異なる「生命、能動/作用、感情」がある。「物体の作用とは他の物体に運動を伝えること」だが、精神の作用とは意志であり、「この作用は誰でも知っているが誰にも説明できない」。以上の見解にはデカルト主義の多大な影響があるが、ブールハーフェは「物体の生命」の記述にあたり引力と重力に関するニュートン的原理を取り入れており、デカルトを超えることをも意図していた。
デカルトの場合と同様、ブールハーフェも人間における精神と身体の密接なつながりを否定しない。「人間は、互いに結合した身体と精神から成る」。精神と身体の本性を考察しても相互作用のありかたを説明することはできないが、相互作用があること自体は「観察によって」知ることができる。「相互作用」とは言うものの、両実体の関係について、ブールハーフェはライプニッツの予定調和説を支持していた。ただし、それぞれを支配する法則はまったく異なっており、哲学者ならぬ医師の仕事は身体のほうを説明することである。
だが、この二元論は医学体系のなかで有益な役割を果たしていたのだろうか? 神学論争に巻き込まれないという役割は確かに果たした。すなわちこれによりブールハーフェはスピノザとは一線を画した。実際、ブールハーフェは様々にスピノザを批判している。たとえば、思考実体に運動など存在しないという観点から、感覚を「身体の運動から生じる精神の運動」とするスピノザの定義に反論している。また、身体の生命がなくても精神の生命は継続することの証拠として、数学者François Vièteの逸話を挙げている。ヴィエトは数学の問題に没頭しすぎ、外界どころか自身の身体の状態さえも意識しなかったという。
2. 心身合一体
心身の区別は純粋に医学的な観点からはどうでもいいことなのだろうか。〔そうかもしれない。というのも〕たしかに、ブールハーフェが具体的な心的過程について説明する際の鍵概念は、「心身合一体」としての「人間」である。「もし我々の人間性が、デカルトの言う通り思考にのみあるのならば」、我々はほんの一瞬しか存続しない「形而上学的な点ないし原子」になってしまうだろう。だが「人間」とは、時間を通じて存続する、すなわち記憶を持つ存在である。ただし、記憶は「身体に依存している」。また知性も、記憶に依存するために身体に依存している。推論のためには観念の連鎖を想起する必要があるが、この連鎖は「共有感覚の機械的傾向から生じる」ものであり、そして共通感覚は延髄基部に位置する。愚者が推論できないのは共通感覚において観念の印象が保持できないからで、つまり以前の思考を想起する身体的資源を欠いているからである。
またブールハーフェは、判断は精神の自由な行為であるというデカルトの見解に反対している。すなわち、我々は脳内で印象が形成される仕方に従って判断せざるをえない。感覚に提示された対象の外的実在性について判断を保留することなど不可能である。また、内的な要因によって過去の対象に関する鮮明な印象が生じた場合、我々はこれを信頼して判断を下さざるをえない(「妄想」)。それどころか、意志も共通感覚における鮮明な印象から〔否応なく〕生じるものなので、観念の真実性を判断するためにこれを使うことはできない。
妄想を理性によって取り除くことは不可能なので、何らかの「力」が必要になる。ブールハーフェ自身の症例がいくつか紹介されている。自分の足が藁だと信じており歩けない人がいた。自分の脚に触るよう促すなどして理屈で信念を覆すのは不可能だった。結局、その人が乗っていた駅馬車に偽強盗をけしかけることで、徒歩で逃げざるをえなくなり治療が成功した。別の例として、自分の排尿が洪水を引き起こすことを恐れていた人物に対しては、火災を消すためにむしろ排尿が必要だと信じ込ませることで治療が成功した。この事例は現代では心理的な治療に見えるが、ブールハーフェはこれは妄想よりも「より強い観念」が共通感覚で生じたことで治ったとしており、あくまで脳の物理的な変化に関係していると主張している。ブールハーフェは、医学に「人体の知識以上のものが必要」だと考える同時代人を批判し、あらゆる疾病の治療は、身体に変化をもたらすことで達成されると論じた。精神障害の治療も、観念が結びついている身体部位に何らかの物理的変化をもたらすことによってのみ可能だった。〔これが実体二元論の医学上の役割である。〕
3. 疾患および精神病について
疾患に関する議論では、ブールハーフェはその直接的原因の特定を重視した。疾患を「自然的実体」と呼ぶのも、疾患には〔結果として〕機能喪失が伴うだけでなく、〔原因として〕特定の身体部位の変化が伴うことを強調した言い方である。それどころか、かなり逆説的だが、ブールハーフェは疾患の原因と結果とを同一視してもいる。たとえば脳卒中を例とすると、これは結果として精神活動の完全な停止をもたらすが、直接的原因は脳幹を圧迫する血液であり、血液の除去が治療につながる。ここで、我々人間にとっては、直接的原因と結果は別個のものであって、両者のつながりは経験によってのみ発見可能なのだが、しかし事物の本性を理解する創造主にとっては、この原因と結果は同一なのだという。〔この点はともかく、〕この理屈により、病気は〔原因としては〕自然的実体であると同時に、人間全体がその影響を受けるという主張が可能になる。
ブールハーフェによると、疾患とは健康を構成する作用の障害であり、また臓器の健全な作用からは快楽が、その作用への干渉からは苦痛が生じる。したがってある意味では、すべての疾病には精神(快苦)が関係している。だが、特定の疾患はより具体的な意味で精神に関連する。人間の本来的機能には生命/自然/動物という三つのカテゴリーがあり、このうち動物的機能が精神(アニマ)に関わる。具体的には、五感や想像力、記憶、判断、情動、随意運動などがそうした機能であり、一般的に言えば、知性ないし意志が関連するものである。したがってブールハーフェにとっての精神疾患とは、身体的変化のうち、知性もしくは意志の本来の作用の遂行を損なう結果をもつものである。
今日では、どの機能が障害されると疾患になるのかを特定することの難しさが強調されている。だが、ブールハーフェはこの点にまったく問題を感じていないようだ。その理由の一つは、どの本来的な機能の障害にも苦痛や不快感が伴うと考えていたからだろう。また、ブールハーフェによる妄想の説明は、精神異常にも機能があるとするあらゆる見解を不要なものにする。ブールハーフェはフロイト派とは異なり妄想の目的を問わない。それは、妄想的判断は共通感覚において身体的観念と直接結びついており、〔そちらに介入すればよい〕と考えたからである。〔繰り返しになるが、これが実体二元論の医学上の役割である。〕
4. 生命的な霊魂という概念に対する反対
だが、ブールハーフェの議論を二十世紀の議論に照らして解釈するのは危険である。ブールハーフェの論敵たちは、フロイト派のような人々とはまったく異なる形で疾患の機能や目的に関心を持っていからだ。すなわち、すべての疾患が精神的なものだと考えていたのだ。たとえばファン・ヘルモントは、すべての疾患は非物質的な生命原理の特殊な機能(なんらかの毒を排出する機能)だと考えていた。ブールハーフェはこのような原理の導入に反対していた。
より一般的に言ってブールハーフェは、霊魂や精神を生命の原理とする考えかたを否定しており、霊魂や精神をあくまで「人間の思惟する部分」とするデカルトの生理学的原理に忠実だった。「生命作用は精神の思考や観念を変えないし、そうした作用が精神に依存したり精神によって決定されることもない。心臓は眠っていようが起きていようがはたらき続けるし、食物を乳糜に変える自然能力のはたらきによって精神の観念が変化することもない」。思考が生命に影響しないというのはデカルト自身よりも踏み込んだ見解である。ブールハーフェは、情念が身体の病気の主原因になるという伝統的な教義も軽視している。
物体と精神の本性を絶対的に区別する実体二元論の医学体系における役割という話題に戻ろう。ここまで見たように、実体二元論によって、あらゆる精神作用に機械的原因を割り当てることが可能になった。これにより、精神的原因を完全に無視することができるようになった。
しかし本節の検討は実体二元論とは異なる二元論を提起している。すなわち、精神的機能は身体の生命機能にまったく関係がないとする、デカルト的生理学説の拡張版である。著者はこれを「機能二元論」と呼んできた。この二元論は、十八世紀後半の精神と身体をめぐる医学上の議論において、実体二元論よりもさらに重要なものとなっていった。たとえばWilliam CullenやJerome Gaubらは、機能二元論を受けいれた一方で、医学において精神のはたらきを考慮に入れる必要はないというブールハーフェの主張には反対した。というのもこの主張は、精神が内臓の病気を生じさせたり、あるいはそうした病気の治療に精神が直接関わる可能性を否定していると思われたからである。
結論
心身問題に関するブールハーフェの議論に後の思想家は多くの点で同意しなかった。しかしブールハーフェは議論の枠組みを提示した。また、ブールハーフェは明確に実体二元論者であったのにもかかわらず、後に唯物論を準備したとみなされる理由も明らかになったと思われる。まず、脳の変化によって心身合一体としての人間全体が変化すると考えられたこと。そして、精神機能と身体の生命機能を切り離したことにより、精神なしで生命器官の正常・病理を完全に説明できると示唆されたことである。