えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

正諜報論とその限界 Miller (2025)

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/08850607.2024.2374227

 国家安全保障諜報(National Security Intelligence)の倫理に関する議論は少ない。とはいえ、米国ではいくつかの事件をきっかけに議論が進んできた。9・11同時多発テロでは捜査における拷問が問題になり、スノーデン事件では情報収集の倫理と責任の問題が浮上した。またコロナ禍では、これまで治安維持・法的執行機関に限られていた情報・監視技術が用いられたことで議論を呼んだ。
 
 国家安全保障諜報活動とは、主として、認識的、敵対的、組織的な活動だと特徴づけることができる。このような活動の規範に関する理論の主なものに、正戦論を応用した正諜報論(Just Intelligence Theory)がある。これは諜報活動が道徳的に許容される条件を、正戦論における許容条件との類比から、おおむね以下のように定める。

  • (A)[正当化原則] その目的が、知識の獲得を通じて、相手のもたらす国家安全保障上の脅威を排除することである。
  • (B)その他の目的では行われない。
  • (C)正統な政治的権威のもとでの活動である。
  • (D)[最終手段条件] より害が少ない代替手段が存在せず、最後の手段である。
  • (E)脅威を排除できると合理的に見込まれる。
  • (F)〔該当国家の事情のみならず〕すべての事情を考慮したうえでも、活動をしたほうが良い結果を生む。
  • (G)
    • (i)[区別原則] 道徳的に正統な対象の情報のみを扱う(無辜の人々を対象としない)。
    • (ii)[必要原則] 目的に必要な手段・範囲でのみ活動を行う。
    • (iii)[比例原則] 活動から生じる害は〔利益と〕不釣り合いではない。

このうち、(A)〜(F)は正戦論におけるjus ad bellumに、(G)はjus in belloに相当する。

 しかしながら、正戦論との類比で諜報の倫理を考えることは適切なのか、様々な点から疑問がある。まず、諜報に関しては平時と戦時のような区別は存在しておらず、jus ad intelligentiamとjus in intelligentiaを区別することはできない。

 つぎに、各理論が適用される対象には大きな違いがある。正戦論の対象となるのは、戦争行為、すなわち殺傷や破壊といった動的〔kinetic〕活動だが、正諜報論の対象は認識活動である。このことは、(D)[最終手段条件] に重要な含意をもつ。たしかに戦争は最終手段であるべきで、この条件は正戦論においてはもっともらしい。しかし諜報はむしろ最初の手段ではないだろうか。諜報活動がなければ戦争を遂行するべきか否かを判断することができない。

 両理論には確かに類似点もある。しかしそれはより一般的な原則が両方の事例に適用されているというだけで、戦争と諜報の重要な類似性を示すものではない。たとえば(C)活動に正統な政治的権威が必要というのは〔組織的活動の全てに当てはまるし〕、(E)目標達成の合理的な見込みが必要というのは一般的な合理性の制約である。

 (F)・(G)およびその正戦論上の対応物は、諜報や戦争は有害で権利侵害的でありうるという事実に関連している。一般論として、善なる目的のために遂行される有害な行為には一定の制約があるべきで、この点で正戦論と正諜報論に類似の制約があらわれるのは当然である。しかし、諜報活動はそれ自体としては戦争行為よりも明らかに害が小さい。このことは関連原則がどう運用されるべきかに大きな違いをもたらす。たとえば(G-i)[区別原則] について、テロリストの親族だが無辜な人物を意図的に殺害することは決して正当化できないが、その人物に対して欺瞞的な手段を用いてテロリスト当人の情報を入手することは、道徳的にも法的にも正当化されうるだろう。同様の論点は(ii)[必要原則] と(iii)[比例原則] にも当てはまる。

 ここで、諜報を純粋な認識活動として理解するのは狭すぎる見方であり、ある種の認識活動の有害性を覆い隠すという反論がありうる。たしかに、諜報機関はいわゆる情報戦、認知戦にも関与しており、そこには有害な点がありうる。しかしそれでも、その有害さは戦争行為とは比較にならない。また、認知戦の本質は戦闘員と非戦闘員の区別を曖昧化することであるが、これにより諜報に関して(G-i)[区別原則] を適用することはますます難しくなる。すなわち情報戦、認知戦を考慮すると、正戦論との類比で正諜報論を構想することの適切性はますます疑問に晒されるのである。

 また上で述べたように、「区別」「必要」「比例」といった諸原則は、善なる目的のために遂行される有害な行為一般に当てはまることにも注意したい。例えば、これらの原則は刑罰にも当てはまる。しかしだからといって、そこから〔刑罰と戦争の違いを十分考慮せず〕に「正刑罰論」を構築するというのは不自然なやりかただろう。〔同じことが正諜報論にも言えるのである〕。

 戦争行為と諜報活動には重要な違いが様々にある。このため、諜報の規範理論は、正戦論といくつかの一般原則を共有していることはたしかではあるものの、正戦論から切り離すべきであり、正諜報論は放棄すべきである。諜報の規範の理論化にとって、正戦論との類比が有用な出発点となったのは確かだが、その役割は終わったのだ。