(https://mospace.umsystem.edu/xmlui/handle/10355/5510)
- 作者: Justin Patrick McBrayer
- 出版社/メーカー: Proquest, Umi Dissertation Publishing
- 発売日: 2011/09/11
- メディア: ペーパーバック
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- McBrayer, J. (2008) *A Defense of Moral Perception*
Chapter 1: 道徳知覚の擁護 ←いまここ
Chapter 2: 道徳知覚経験
Chapter 3: 道徳知覚
Chapter 4: 道徳知覚の認識論
1.0 序
・一般認識論とは、知識(/正当化)の本性、射程、起源、価値などを問う探求である。一方で主題的認識論とは特定の領域の観点からこの問いに答えようとする探求である。
・この本は道徳認識論を扱う。
1.1 道徳認識論への動機
・でも何故道徳認識論をするのか?
(1)雲に関する真なる信念より真なる道徳的信念を持つことの方がふつう重要である
(2)道徳信念に認識論的地位には、次の3点で深刻な挑戦がある。
・程度の差こそあれ世間はみんな道徳的知識に関してローカルな懐疑主義者
・哲学者にも、グローバルには懐疑主義者じゃないのに道徳ローカルでは懐疑主義者がいる(ハーマン、S-A)。……道徳的信念には特異な何かがあるのでは?
・【道徳知識の古典的問題】ほとんどの知識はアプリオリに知られるかまたは観察によって知られるが、道徳知識はどちらでもないように思われる。道徳的知識はどこからきているのかよくわからない。
1.2 自説
・主張:少なくとも幾つかの道徳知識は知覚的である
「知覚」について
・Dretske (1969)の「見ること」と「〜として見ること」の区別:あなたの車を、あなた の車として見ることなしに、見ることができる。
→「知覚すること(de re)」と「〜として知覚すること(de dicto)」の区別……全ての知覚はde re知覚だが、知覚的知識は(命題的なので)さらに、de dictoの知覚を必要とする。ここでの主張は、「de dictoの道徳知覚が存在する」というもの。
「道徳経験」について
・人は道徳経験を持つことができる。が、「道徳経験」は2つの意味で使用されてきた。
<感情的意味> 何かに対する主体の感情/情動的反応
<知覚的意味> 道徳性質を表象する知覚経験
→ここで用いる概念は後者。道徳経験は道徳的知識にとって〔証拠として〕重要である。
・人は道徳知覚することができ、そしてこの知覚が道徳的知識の源泉である。
「道徳知覚」について
・ところがさらに、「道徳知覚」も2つの意味で使われてきた。
<徳にかかわる意味> 主体が、いま直面している個別の状況に対して、正しい道徳的信念をもったという事態
<認識的意味> 主体が、知覚プロセスを通じて道徳性質に気付くようになった時に生じるもの
・徳にかかわる意味での道徳知覚は、非道徳的性質(例:痛み、苦痛など)に(知覚的であれ何であれ)気付き、その性質が道徳に関係あるという背景的知識と組みあわさった時に生じる。従ってここでは、知覚によってはいかなる道徳的事実も知られていない。
・一方で認識的意味での道徳知覚は、ある対象についてそれが何らかの道徳的性質を持つことを知覚するものであり、知覚による道徳的知識に不可欠。←この意味で使う
類似する諸説との違い
・Mcdowellとの:道徳性質が二次性質だという議論を呼ぶ仮定は置かない
・Greco(2000)との:グレコは一般認識論として一種の行為者信頼性主義をとるが、ここでは一般認識論のどれかの正しさを仮定しない。
・Watkins and Jolley (2002)との:彼らの「道徳的経験」は感情的意味である
・Cuneo (2003)との:前提されているリード的な枠組みを採らない。
・McGrath (2004)との:彼女はIBA、非道徳的事実からの推論、アプリオリな推論では説明がつかない道徳的知識があると論じ、知覚的な道徳的知識を消極的に擁護した。ここでは道徳知覚に関して積極的な説明を行う。
・McNaughton (1988)やコーネル実在論者との:彼らも道徳知覚に関して積極的説明をしていない
1.3 自説への動機
(A)現象学に忠実
・多くの場合、ある行為や状況が悪いという思考の理由になるのは、我々が特定の体験〔道徳経験〕を持つという事実であり、意識的な推論過程として道徳原理を用いたりしない。
・【反論】道徳判断の真理が疑われる場合、直示を行うことはあまりせず、行為の性質を指摘することが多い。しかし普通の知覚的判断の場合は直示に訴える「バナナが熟して無いだって? 見てみろよ!」)〔従って、現象学が似てると言っても、この場面で道徳知覚が行われている訳ではない〕。
・【再反論】「どうしてこの行為は悪いと君は思うのか?」という問いは曖昧であり、信念の正当化を求めている(あなたがそう信じているのは何故?)場合と、対象について尋ねている場合(その行為が悪いのは何故?)がある。直示ではなくではなく性質の指摘で答えると言う事実は、われわれが2つ目の問いに答えているという事を表しているに過ぎない。
(B)道徳の懐疑主義に十分な解決を与える +(C)理性主義よりも強力
・【道徳の古典的問題】
1.われわれは少なくとも何らかの道徳的見解を知っている。
2.知識の源泉は理性か経験かのいずれかである。
3.理性も経験も道徳知識の源泉ではない
・マクブレイアは(3)を否定する(還元主義)。特殊な道徳能力を設定せず(¬2)懐疑論にも陥らない(¬1)。還元主義者の多くは道徳的知識の源泉が理性だと考えるが批判も多く、マクブレイアの立場ならそれらを回避しつつ還元主義を維持できる。
(D)道徳哲学の中での反照的均衡の使用を正当化
・道徳哲学で反省的均衡を使おうとすると、何が科学で言うところの「観察」の役割を果たすのかという問いに答えなければならない。知覚経験〔道徳経験〕なら、特定の道徳主張が真であると考えることに良い理由を与えてくれる。
1.4 前提と議論
この論文での前提
【1】 道徳的信念が存在する(非認知主義は間違い)
【2】(ほとんどの場合)知覚は知識の源泉である(知覚による知識の懐疑主義は間違い)
【3】道徳的実在論 ←「知覚する」は成功動詞なので当然。ただし注意2つ
(i)知覚的正当化の際に認識的役割を果たすのは主体の内的な心的状態であるとされることが多い。これが正しい場合、道徳的実在論が誤っている場合でも、<道徳信念を知覚的に正当化する>という可能性が残る(4.1で詳述)
(ii)外界の知覚的知識の擁護者が外界の存在を証明する必要がないように、道徳的な知覚的知識の擁護者も道徳性質の存在を証明する必要はない(3章で詳述)。
この論文の議論のながれ
・多くの場合、Xという事を知覚しXという信念を形成することは、Xと知ることにとって十分。だから、何かが道徳的性質を持つと知覚し、そう信じるようになることが可能だと示せば、知覚的な道徳的知識の存在を示す事になる。ここで擁護すべき前提は2つ。
【(A)人間は道徳知覚を持つことができる……2章・3章】
(SがXはFであることを知覚するためには、いくつかの内的(主体の心に関する)条件および外的条件が満たされていなくてはならない。2章と3章では道徳知覚と思わしき事例がこの両制約を満たすことを示す)
【(B)少なくとも幾つかの場合、道徳知覚は道徳的知識にとって十分である……4章】