えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

双子地球論法への文脈による応答 クレイン [2001=2010]

心の哲学―心を形づくるもの

心の哲学―心を形づくるもの

  • クレイン ティム [2001=2010] 『心の哲学―心を形づくるもの』(植原亮訳 勁草書房)

37 外在主義擁護論

双子地球論法

物理的に完全に複製である双子がいる。片方は地球におり、もう片方は地球にそっくりだが湖や川にXYZなる科学物質がある双子地球にいる。双子はH2OとXYZの違いについては知らない。
今双子が「水」という言葉を発し「水」について考えているものとする。

(1)ある思考が何を指示しているかはその思考の内容によって決定される(内容指示決定の原理)
(2)双子は、「水」という語を用いるとき、異なる事物を指示している
(3)それゆえ、双子の思考は内容が異なる
(4)したがって、双子が考えているのは異なる思考だということになる
(5)双子は物理的複製であるが思考が異なるため、思考を決定しているのは双子の身体や頭の物理的特性ではない
(6)それゆえ、双子の思考は「頭の中に」はない。〔思考は思考者の身体の内在的によっては決定されない/それに付随しない〕

ここから外在主義は、思考対象が思考を部分的に構成していると考える。もしそうなら、内在主義者はこの論法に反論しなくてはならない。

「共通概念戦略」:前提(2)を否定し、双子は同じ事物を指示していると考える

 我々の直観的な言語的判断だけでは、XYZが水かどうかという結論をアプリオリに出すことはできない筈だ(それらは2種類の水なのかもしれないし、水なんてなかったという事になるかもしれない)。ではなぜ「H2OもXYZもどちらも水であり、双子は単一の概念をもっていてそれを「水」と表現している」と言ってはいけないのか。
▲この戦略を一般化するためには、「あらゆる事物に関して、双子がそれらを識別不可能なら、双子の思考において指示されている事物が異なることはありえない」という強い主張をする必要がある。だがこれは不可能であり、それは個別的対象を考えればよくわかる。
・私がウラジミルについて考えており、双子私は双子ウラジミルについて考えているとせよ。我々は両ウラジミルを識別することは不可能だが、我々の思考において指示されているのは明らかに別人である。
・つまり外在主義者は、「元の事物と質的には区別できないが本質的な点で異なる分身が存在する」とさえ主張できればよい。知覚的な見かけ以外の点に事物の本質がありうるということを認めた時点で、このことに反論するのは不可能になる。

内容指示決定原理の否定

内容が指示対象を決定するという原理は、指標的な思考に関しては成り立たないように見える。
Ex) アリスとボブの二人が別の場所で「ここは本当に暑い」と言う場合 ――内容指示決定原理によれば「ここ」の指示対象が違うのでふたりの思考内容は違う。しかし二人の思考には類似性があることも明らかである。では思考内容は異なるのか、同じなのか?
→言葉遣いの問題である。しかし、二人は対象の思考のされ方を共有している(今いる場所を「ここ」というアスペクトの下でとらえている)という意味で、「内容」には指示対象につくされない意味がある。これにより、「内容」と言う語のある理にかなった使用法の下では、内容指示決定原理が一般的に妥当なわけではないことがわかる。
・そこで内在主義者は、内容指示決定原理を文脈に相対化して、「双子の思考は内容を共有しているが、文脈が異なるがゆえに指示対象が異なる」と主張する余地がある〔そう主張できる「内容」の理解の仕方がある〕。すると問題は、「思考」や「内容」の最良の意味は何かと言う点になる、双子地球論法は内在主義への決定的反論にはならなくなる。
・双子が共有している志向的状態を「狭い状態」と言い、狭い状態が持つ内容を「狭い内容」と言う

38 直示的思考

・問題:直示的な表現(「あれ」、「あのF」)によって表わされる思考は内在主義的ではありえないのではないか?
・直示的思考に関する尤もらしい二つの主張

1:純粋に記述的な、な意志は量化子の付された思考は、いかなるものも直示的思考とは内容や認識価値〔や真理条件〕が等しくない
・「あのパイナップルは腐りかけている」に対応する純粋に記述的な条件が手に入ったと言われても、合理的な思考者なら、その条件を満たすのがあのパイナップルなのか疑うべき理由がある可能性があるように思われる

2:知覚されている環境についての直示的思考なるものが存在しないのであれば、我々の抱く記述的な、ないしは量化子の付された思考が、この世界に「つなぎとめられる」ことはありえない。
・もしわれわれが純粋に記述的な思考しかできないのならば、われわれはまさにこの世界の対象について思考しており、この世界と質的に同一な複製世界の対象について思考している訳ではないということの根拠がなくなる〔ストローソンの「大規模な複製」〕

→直示的思考が純粋に記述的思考に還元できなければ、1、2どちらによってもグローバルな内在主義は論駁される。

・しかし内在主義者は、混成的な記述−指標的なやり方によって直示的思考を理解することができる。
 「あのFはGだ」 → 「かくかくの仕方で私と関係しているFはGだ」
 「あのパイナップルは腐りかけている」 → 「私の目の前にあるパイナップルは腐りかけている」
・本当に知覚しているアリスと幻覚を見ているボブが、どちらも「あのパイナップルは腐りかけている」と言う場合、外在主義者はボブは確定した思考を持たないと言う。一方内在主義者は、2人は「私の目の前にあるパイナップルは腐りかけている」という真理条件を持つ同じ思考を持つと言う〔ことが出来る〕(勿論我々はボブの思考を「ボブはあのパイナップルが腐りかけていると考えている」などとは記述しない。しかし思考と思考帰属の条件の区別に基づけば、このことからアリスとボブの思考内容が違うことは帰結しない)。
・この応答も、双子地球への応答と同じく、「思考は文脈と独立に指示対象を決定するのではない」という見解に基づいている。内在主義の核心は、「心に関する類似性は、主体から事物がどう見えるかという点の類似性に従う」という見方である。

39 思考を説明する見通し

・「思考の志向性を自然主義的に説明するプロジェクト」には詳細に触れない

(理由1)前提となる物理主義を既に退けたから(第二章〔ゾンビの思考可能性によって〕)
 また、通常このプロジェクトは、ある事物が別の事物を表象するための十分(たいていはさらに必要)条件を、二つの事物間の因果関係によって与える
(理由2)しかし思考とその対象の間にはいかなる関係もないから(7節)

→自然化プロジェクトの見通しは暗い

第4章 知覚

40 知覚の問題

・この章で扱うのは、知覚の志向性及びそれを理解しようとする場合に生じる諸問題。知覚メカニズムに関する経験的探究ではなく、われわれが「知覚」や「知覚経験」と呼ぶものの一般的な特徴の体系的な記述を行う〔概念的探求〕。
→しかしこの試みには困難がある。なぜか:知覚に関する我々の理解には緊張があるから――我々が経験するものとしての知覚にかかわる「現象学的問題」

・知覚の現象学的問題とは? →知覚に関する二つの直観的な理解の間の衝突

1:視覚的知覚においては我々は周囲の物的世界に直接的に気づいている
  ・直接的≒世界の中の物的対象に気づく際に、物的対象ではないものに気づくことによってその対象に気づくのではない
  ・我々はトーストのにおいを嗅ぐこと「によって」〔間接的に〕トーストを嗅いでいるし、ベルの音を聞くことでベルを聞いている
  ・しかし、視覚の場合、庭園の「見え」を見ることによってその庭園を見るというのはまったく意味をなさない
2:「現象原理」:「あるものがFだという経験をひとがする時、その人が経験しているFであるようなものが現実に存在する。」

→ある種の幻覚の可能性を考えるとこの二つの理解が衝突し、「錯覚論法」が生じてくる。