The Varieties of Reference (Clarendon Paperbacks)
- 作者: Gareth Evans,John McDowell
- 出版社/メーカー: Oxford University Press
- 発売日: 1982/12/23
- メディア: ペーパーバック
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- Evans, G. (1982) The Varieties of Reference (Oxford Univ Pr)
第8章 再認ベースの同定
8.1 序論
8.2 再認と情報システム 8.3 再認能力と空間
8.4 再認と想起 8.5 記述による再認 8.6 混合観念 ←いまここ
8.4 再認と想起
再認能力によって対象の適切な観念が獲得できると考える哲学者はいる。しかし彼らはラッセル的な指示の捉え方をしておらず、この種の観念を記述同定のように考えている(Searle, Dummett-Frege)。
しかし、再認能力を行使する際に、主体が同定するよう傾向付けられている唯一の対象がないならば、その能力に基づけられる思考の対象は何だというのか?
二種類の記憶力
記憶能力を行使する方法は想起と再認の2つある。単語のリストを提示された時、想起‐記憶をテストするには、しばらく後にその語を思い出してもらえば良い。他方、再認‐記憶をテストするには、元リストの語に他の語を混ぜた上で、それぞれの語ついて元のリストにあったか聞けばよい。日常的経験及び心理学の実験から、人は想起できないものも再認できるとわかっている。
<想起できないものを〔実際見た場合〕再認するだろう>という状態を「remember」と言えるのかという点を問題にしたい訳ではない。これは主体の中に情報は保たれていたのだがアクセス不可能だったという状況だろうが、この意味で「憶えている」ことは、主体の思考内容の特定には関係ない。
記述同定モデルで再認ベース同定は適切に理解できるか?
以上を踏まえて、「あのロシア人は酔っ払っていた」という思考を持つ主体考える。主体はこの男を憶えていなければならないが、もし想起が〔対象を同定するのには〕極めて荒く不正確だとしても、その人が目の前にいるときに再認できる能力を持っているならば、主体は自分がどの対象を心に抱いているかよく知っていることがある。
以上の考察から、再認能力に基づけられる思考の内容は記述的な語彙(つまり、事物の現れに言及する語彙)で適切に報告されることはあり得ないという事が帰結すると思われる。〔再認による内容特定を認めない場合、〕想起できないものは思考内容の特定に関係を持たないが、しかし憶えている特徴による記述が再認対象をユニークに選び出すことは殆どの場合ありそうにない〔ため再認同定は不可能になってしまう〕。
反論者の誤解
ウィトゲンシュタインが言ったように、人は再認を、持っている絵を使って(それと見比べて)対象を同定するかのごとく理解しがちである。
しかし、たとえ対象をよく想起できる場合ですら、我々は同定にあたってその情報やそもそも何らかのものを「使う」必要はない。
一般名辞の使用を説明する際、心像との比較のような心のメカニズムを措定したくなる誘惑があるが、単称指示に関する記述説も同じ考えの産物であると考えると良いのではないか。
以上が記述モデルへの一つ目の反論。ただしここまでは、再認能力が記述的語彙で「捉えられる」という前提は不問にしてきた。
8.5 記述による再認
顔を再認する
だがこの前提は怪しい。仮に、主体Xは対象(友達γ)の顔をはっきり想起出来、しかもこの情報を同定に使えると仮定しよう。この時、この対象についての思考の内容を記述的に特定するとなった時に使えそうな記述は何か?
顔は様々なパーツに分けられるが、γだけが唯一満たすような記述を見つけるためには「鼻が高い」とか「生え際が交代している」のような概念では全く十分ではない。しかし、各パーツの細かい比などの概念がXの思考の特定に場所を持っているとは考えられない。
「このようにみえる」
しかし、よく想起できるというのは、γの顔についてXは鮮明な心像をもてるということではないか? とすると、この像‐表象をさして「このよう」という記述を用意できるのではないか? 「ξはこれまで会ったどの人よりもこんなようにみえる」はちゃんと概念表現であるように思われる。
究極的にはこうした記述は言われたりコミュニケートされたりするものであって欲しいので、構造化されていない述語「φ」を用意し、「この」ように見えるものすべてに適用できるとする。
さらに、私的なイメージを公的な表象にするため、Xは自分の憶えているようなγの現れをまさに捉えているような絵を手に入れたとしておく。
これで相手の立場はかなり強力になった。次に重要な類似性あるいは「looks likeようにみえる」の概念を検討する。
類似性の概念
ここで問題となる類似性は絶対的類似性ではなく「二次類似性」、つまり(二次性質とのアナロジーで)、諸対象が、それが人間に与える効果のゆえに、もつ類似性のことである。つまり、
<cよりもbのほうが客観的にaのようである iff cよりもbのほうが人々にとってaのように思われる(strike)>。
性質を二次的だとすることには、事物が人間にもたらす反応を人間の「判断」だと考えなくて良くなるという重要なポイントがある。<類似に思われる>ということを類似性判断に訴えずに特徴づけることは可能に思われる。
この点で、心理学における刺激般化の例に従える。
事物の間には、先立つ観念連合なしにも、一定の類似性があると考える。
あるものが別のもののように思われるというのは判断ではなく反応であり、真理が問題になるものではない。この反応は言語的に表出されることもあるが(「彼はなんと父親に似ているんだ!」)、これは例えば他の人の同意が問題になる時など、偽であることが問題になる時に限って判断だとみなされうる。
個人特異的な類似性の空間の問題と私的概念の問題
以上により、「これまで会ったどの人よりもこんなようにみえる」という記述には何の問題もなくなった。しかし、γは本当にこの客観的基準に合致するのか? 確かに、Xは例の絵を他の誰よりγのようだと思うだろう。しかし、Xにγを思い起こさせるものが、人一般にγを思い起こさせるものなのだという必然性があるか? Xは他の人とは全く違う性質に対して敏感であるがゆえに、例の絵をγに似ていると思っているのかもしれない。しかし、〔例えば〕他の人は例の絵がγではなくγの弟の方に似ている思うことから〔二次類似性の定義によって〕、本当のところXはγの弟について考えているのだと主張するのは不条理である。
ここで、問題の「ようにみえる」はXにとっての「ようにみえる」なのだと言いたくなる。しかしこれは完全な私的概念なので、Xが言ったりコミュニケーションしたりしている内容の特定には全く使えず、記述論者にとっては役に立たない。また、ウィトゲンシュタインによればそもそもこんな概念は存在し得ない。
当初、Xはγを識別する性質を知っているのであって、「Xがγを再認するのはγがφを満たすからなのだ」と言えると思われた。しかしこの性質がXの私的概念なのであれば、我々はよくて、「Xがγを再認することによってγはφを満たす」としか言えなくなってしまった。
8.6 混合観念
ここでは、対象についてたった一つの知り方しか含まない「原子的」思考に焦点を当ててきた。しかし再同定がおこなわれ、それに基づいて思考が継続する事例も多い。以前会った人の情報が保たれ、「あの人」という観念を含む思考が可能になっていたが、その人に今日会って、この観念が含む再認能力を発揮したことで、「あの人=この人」と判断するに至ったとしよう。これ以降、この人についての思考は、以前と今の両方の出会いからくる情報によってコントロールされることになる。この後の思考は新たな種類のものである。つまり、新たな観念を含んでいる。
こうしたシンプルな事例では、別の人を「あの人」だと誤同定していても、新しい観念を含む思考の真理条件は明確だと思われる(ただし絶対に満たされないが)。従ってこれは、対象の非存在が思考内容を奪う事例ではない。この種の思考を、「混合的」のみならず「分離可能」と呼ぶ。これが成立するのは2つの観念を主体がまだ持っている時であり、このことの指標として、主体が再同定の否定を理解できることがあげられる
しかし、情報が分離不可能な形で組み合わさっており、新しい観念は主体がもはや把握できないような再同定の結果として出てきている場合もある。この分離不可能な思考の場合、誤同定をやっていると整合的な内容を見出すことが出来ない。
8.2で触れたように、再認の繰り返しによって対象について豊かな情報が得られる。このようにして出来た観念を含む思考はふつう分離不可能だが、適切な状況下では限定的な形で分離可能な場合もある(「あの人はそもそも君の友だちXでは無かったんだな」)。( 以前耳にしていた対象について今また話されている、といった形での混合もありうる。分離可能な場合も、不可能な場合もある。)