えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

自己の空間的境界 Dainton (2008)

The Phenomenal Self

The Phenomenal Self

  • Dainton, B. (2008). The Phenomenal Self. Oxford: Oxford University Press.

【要約】
 自己の空間的境界はどこまでだろうか。身体の境界と一致するとする立場「極大主義」をとると、同じ空間を「二つの物的存在者(つまり「自己」と「身体」)が同時に占めることになる。このことは一般的には構成に訴えれば可能だ(極大主義 + 複数主義)。しかし自己と身体が問題となる場合、「自己の数が増えすぎる」という問題が生じる。既存の議論はこの問題をうまくかわせていない。一方、様相述語の不透明性に訴えることで、関係する存在者は一つしかないとする見解もある(極大主義 + 単数主義)。これはうまいが、同一性の偶然性などを認めなければならない形而上学的に重い選択肢である。一方デイントンは、意識経験を可能にする能力システム(=Cシステム)と自己を同一視し、このシステムを実現する物的存在者の範囲(現実的には脳の特定の部分)が自己の空間的境界だと考える。この「極小主義」はより様々な形而上学的見解と整合的であるという利点を持つ。

   ◇   ◇   ◇

【前半部のまとめ】
1.極小の身体化:C[=意識]システムおよびP[=心理]システムが物的に接地している
2.現象的身体化:主体には自分が身体を持つと思われている
3.効果的身体化:2 + 主体の心が身体と適切な仕方で因果・機能的に結びついている
4.最大の身体化:1 + 3
・F関係:心と身体のあいだの因果・機能的関係

7.5. 境界線論争
  • 主体が身体Bをもつ if 主体がBに効果的に身体化している。
  • 効果的身体化にはF関係があれば十分。主体がB内部に空間的に位置する必要は無い。
  • 主体の共時的な空間的境界は、心的能力が接地する物的システムの範囲を超えない(極小主義) ……主体はCシステムと同一であるというデイントンの見解もこの一種
    • ⇔ 主体は身体全体の境界と一致(新ロック主義・極大主義)
      • 極小主義の方が広い形而上学的枠組の中で真になる。一般的な形而上学的問題にできるだけ中立でありたいので、極小主義を支持したい。
  • 以下ではまず極大主義の問題点を検討する。
    • 私が身体と一致するなら、おそらく私は物的存在者だろう。身体も物的存在者なので、ここでは二つの存在者が同じ空間を同時に占めることになる。
      • 複数主義:可能 / 単一主義:不可能
  • 例:彫像である「ゴリアテ」とそれを構成する粘土「ランペル」を考える
    • 両者は明らかに存続条件が異なり、一方が存続し他方が消えることがある。両者が同一ならこれは不可能なはず。従って両者は数的に異なる。
    • このように、ゴリアテはランペルと同一ではない。だが、ゴリアテはランペルによって構成されていると言うことはできる(Wiggins 1968)。このように考えれば同一空間の問題は回避できる(複数主義)。
      • 主体と身体についても同じことが言えないか? (=複数主義 + 極大主義)

人口過剰のおそれ

  • 「主体多すぎ問題」
    • 主体Pが、主体に特徴的な心的状態(心理的&経験的)を全て備えた人間-動物Hから構成されているとする。だがそのようなHはまさに主体であるように思われる。するとここには、動物である主体Hと、動物でない主体Pという二つの主体があることになる。なんだかおかしい。(Snowdon 1990)
      • Hを主体ではないとする主体の基準はありそうにない。また「動物主体」と「純粋主体」があると言っても問題は解決しない。二つの主体は思考トークンを共有するため、「私は純粋主体である」という思考の「私」は常に二重の指示対象を持ち、同一の思考が同時に真でも偽でもあることになってしまう。
    • ※なおこの問題の根は、動物が実体だという点にある。たとえば分子の集まりが問題ならば、「主体は実体でなくてはならないが単なる分子の集まりは実体ではない」と応答できる。

応答

  • (1)「心理的」状態は、有機的・生物的な存続条件ではなく心理的な存続条件を持つ心理システムの一部としてしか存在できない。従って動物は心理的状態を持っておらず、主体とはいえない(Shoemaker 1999)。
    • この反論はP説の擁護者にしか使えない。有機的・生物的存続条件を持つものが「経験」能力を持たないとは考えがたいため、デイントンのC説を同じように擁護することは難しい。
  • (2)動物は心的状態もつが、それは主体から借りている。これは、ランプルが美的価値をゴリアテから借りているのと同じである(Baker 1999)。
    • Bakerの分析によると、動物が主体に心的状態を借りているなら次の二つのことが成り立つ。
      • (i)動物による心的状態の所有は主体との構成関係に依存する
  • 動物はCシステムをもたなければ経験能力をもたないので、これは成り立っている。
      • (ii)主体による心的状態の所有は動物との構成関係に依存しない
  • 動物により構成されていない主体(Cシステム)は可能なので、これも成り立っている。
    • Bakerは正しい路線にいると思われる。動物は経験能力を持つが、それは数的に同一の経験能力を「非派生的な」仕方でもつ主体と構成関係にあることによる。従って真の意味での主体は一つしかない。
      • だがこの複数主義擁護論は思ったほど強力ではない。Bakerは、派生的な経験能力の所有と主体性がなぜ両立しないのかを説得的に示せていないからだ。
7.6. 単一主義的な代替案
  • では複数主義はあきらめ、単一主義 + 極大主義ではどうか。
  • 【提案1】上位種の存在者は下位種の存在者を消す(Burke 1994, 1996, 1997)
    • 粘土がゴリアテになる時、粘土は存在をやめる。
      • 疑問しかない
  • 【提案2】様相述語の不透明性に訴える(Lewis, Gibbard, Noonan)
    • ランペルは「破壊されることなく丸まりうる」が、ゴリアテにはできない。このこととライプニッツの法則から両者の非同一性が帰結する。だがこの法則が成立するのは、対象の真の性質が問題となる場合に限られる。対象の真の性質を表示する述語は指示的に透明である。
    • ここで、単称名にも意義があり、「ランペル」と「ゴリアテ」は同じ指示対象を持つが意義が異なると考えよう。この違いがそれぞれの名を別の種概念に結びつける。種概念は、そこに属する対象の存続条件と、その対象を貫世界的に追跡するための条件を与える。すると、ある対象に様相述語を適用できるかどうかはその対象をどの種概念のもとで扱うかに依存することになり、様相述語は不透明になる。
      • うまい。だが、〔様相〕述語を対象に直接帰属することができず、また同一性が偶然的なものとなる。これは万人が賛成する選択肢ではない。
7.7. 極小主義と所有
  • C理論によれば主体はCシステムと同一である。ということは、動物の部分である。
    • このような「極小主義」なら、「主体多すぎ問題」は生じない。
    • またこの説は、「私」が身体をも指示しうることとも整合する。
      • 「ここ」が文脈に応じて様々な範囲を指すように、「私」の指示対象も文脈依存的に決まるとすればよい。
  • 【反論】だが動物もあなたと同じ心理・経験能力を持ち、主体であることになるのではないか。それとも動物は思考や経験を持たないのか。
    • 性質所有にかんする区別を設けて問題を明確化する。
      • 一次所有:性質を持つのは対象の全体であり、部分ではない。
      • 二次所有:対象は、己の部分が性質を持つことによって、その性質を持つ(例:車にDVD再生機能がある ←車そのものが再生装置である必要は無い)
    • 【応答】動物は心的能力を二次的に所有する。
      • 動物は消化器官を部分とすることで消化能力を二次的に持つ。だが「消化者多すぎ問題」など生じない。ここでも話は同じである。
    • この応答はBakerと似ている。彼女は動物が心的状態を実際持つことを強調した点で正しい。だが、「派生的」・「非派生的」所有は物的に完全に一致する二つの対象に適用されるため、にもかかわらず片方しか主体でないとはどういうことなのかという問題が生じる。
    • 他方、「一次所有」者と「二次所有」者は物的に一致しない。このために、競合する主体という問題は生じなくなる。

複雑化

  • 【問1】ところで、Cシステムとそれを構成する部分(経験能力)の関係はどうなっているか。
    • ある時点でCシステムを構成する経験能力たちのあつまりを、「C集積」と呼ぶ。C集積はC関係にある経験能力の最大の集合から構成される。ここで、ひとつでも経験能力が増減すれば、あるC集積は消滅すると約定しておこう。
  • 【問題】私たちは経験能力を得たり失ったりするので、C集積と同一ではありえない。だがC集積は共時的に主体であるため条件を満たしている。従ってここでも人口過剰問題が生じてしまう。
    • 【応答1】主体は実体でなければならないが、C集積は実体ではない。なぜなら実体は部分を失いうるがC集積はそうではないからだ。
      • ただしこの実体/非実体区別は万人が賛同するものではない
    • 【応答2】多くのCシステムは、その部分が独立で存在しうるようなものではない(9章)。だとすると、Cシステムは形而上学的に単純な存在者だと考えられるかもしれない。
  • 【問2】「極小身体」(=Cシステムを構成する経験能力を直接所有する物的システム(=能力基盤))と、主体の関係は何か。
    • 答え:(傾向的性質の)例化/所有
      • ※部分関係や一致ではない
  • 【問3】動物の心的能力はその種の個体の役に立つから進化してきたはずだ。動物自体ではないものに動物の心的能力を帰すのはおかしい
    • 答え:おかしくない。意識的存在は動物の中に効果的に身体化されているので、心的能力は動物の役にたつ。
  • 【問4】私たちは自分の身体を存続させようとするいわば生得的欲求がある。どうしたら身体なしでも自分は存続するなどと考えられるのか。
    • 答え:よく考えればわかる。私たちの最も基本的な欲求は、生物としての生ではなく意識的存在としての生を求めるものだ。