- 作者: L.ビンスワンガー,山本巌夫
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1972/01
- メディア: 単行本
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- ビンスワンガー, L. (1972=1960) 『うつ病と躁病』 (山本他訳 みすず書房)
うつ病の場合は、時間的客観性の思考的構造における機能停止の契機の分析は、うつ病者がもっぱら自己の世界に向かっている、というだけの理由で〔時熟における機能停止の契機を求めることが〕成功したのだ、としか答えられない。ところが躁病者は、自己を離れて、「社会Gesellschaft」に向うのである。したがって問題はきわめて複雑となる。なぜなら、今や共存在の「領域」ないし、フッサールが命名し、優れた分析をおこなっている相互主観性Intersubjectivitaet、つまり共同世界das gemeinsame Weltの問題の「領域」にわれわれは立ち入ることになるからである。 p. 69
フッサールにおいて代表象とは、まず(以下を参照)他者の身体的現表象に付け加わるものであり、現表象を他我知覚、すなわち他者すなわち他我の経験という統一に融合させるところのものである。 p. 72
シラシはこの著書のなか(四四章で)、共同世界の構成は代表象の行為を通じてなされるということ、およびこの行為は、それに属する過去志向、未来志向とを伴った現表象に自体基づいているということを、きわめて明確に示している。 p. 28
エルザ・シュトラウス夫人は、躁病の中に生きている、すなわちまったく孤立した現前的なもののなかに生きており、フッサールのいう生活慣習的結合がない、つまり現前的なものの生活史的な「展開 Explikation」がない、換言すれば、その現前的なものを内的生活史の連続の中に組み込むことが不可能となっているのである。これは要するに過去志向も、未来志向もも、機能を停止しているということに他ならない。 p. 86
患者にとっては、叩いて歩いている家具と、引きずり廻している看護婦との間には、なんの区別もなくなっている。看護婦も彼女にとっては「家具」であり、たんなる「物」であり、なにかで捉える Nahmen-bei-etwas 、たんなる「事物」に過ぎない。共人間である他者は、この場合、他我として代表象されなくなるので、たんなる利用物ないし消費物になり下がってしまう。 p. 89
さてこの例を選んだ理由となっている、〔患者が行う〕「講義」に関していえば、これは最初から場に相応した事情全体性、あるいは相応した関連ないし指示全体(ハイデッガー)の志向的構成に至っていないという点で、症例エルザ・シュトラウスと共通している。つまり症例エルザ・シュトラウスでは、礼拝あるいは教会の秩序ともいうべき事情全体性の志向的構成に、症例アムビュールでは、われわれの表現を用いれば、「家の秩序」という指示全体性を志向的構成に至りえないのである。これらの「秩序」は、大学と言う確固とした制度の形をとっている秩序と同じく、――シラシが行動の例で示したように――それが共同なものとして「同一に代表象されたもの」である場合にだけ「機能する」のである。 p. 94
健康者の生活では慣習的で、生活史的関連をもち、その関連のなかで排列されている代表象が重きをなしているので、現実に現前しているものより代表象の方が「優勢」であるといえる。ところが躁病者では、この症例がはっきり示しているように、生活史的代表象は、現実にあるいは目前に現前しているものや現表象の後に完全にしりぞいてしまっている。しかし他者の存在に対する自然な理解、すなわち、わたしが他者を「認識する」のは、現表象につけ加わってくる代表象によっているのであるから、――これは自己「認識」に関してもあてはまることであるが――躁病者の「時熟欠如」と、それに関連している「時間欠如」とが、他我、つまり共同世界の構成に関して決定的影響を与える。 pp. 99-100
躁病における時間の客観性の構造障害は、二つの様相を呈することが分かる。すなわちその一つは、意味ないし思考一貫性の欠如であり、他は、代表象一貫性の欠如、換言すれば、生活史に「根差した」「恒常的」、ないし、フッサールのいう「慣習的」代表象の欠如である。 p. 110
代表象の障害の原因は、自我、つまり、その構成的経験、換言すれば、その本質的構成的結合、とりわけ時性の結合の解体にある。 p.111
このように、躁病者は自己自身を、完全な意味で自我として代表象的に経験することができない以上、前にも述べたように、他我もまた代表象的に経験することができない。かれらには、自分自身に対する一貫した態度が欠けているように、他者に対しても一貫した態度が欠けている。これが、われわれがかれらを、無定見、当てにならぬ、無性格的、などと、道徳的な表現でもって特徴付ける理由なのである。かれらには、フッサールことばをかりれば、慣習的なものが欠けているのである。かれらの時熟様態は、場当たり的なものであり、観念奔逸試論で詳述したように、悪しき瞬間という意味での刹那性である。この悪しき瞬間は、ハイデッガーが滞在的喪失性と名付けたものであり、(本来的な)瞬間とはまったく相反する現象である。「そこでは、現存在はいたるところにあり、そしてどこにもない」(存在と時間 Sein und Zeit 三四七頁) pp.115-116