えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

生権力への抵抗 フーコー(1986) [1976]

知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)

  • フーコー, M. (1986) [1976] 『知への意志』 (渡辺守章訳 新潮社)

 しかも、19世紀にはなお新しいものであったこのような権力に対して抵抗する力は、まさにこの権力が資本として用いたそのものに支えを見出した。つまり人間が生物である限りの生と人間にである。前世紀以来、権力の全般的システムを問題とするような大きな闘争は、古き権利への回帰の名においてはもはやなされないし、あるいは多くの時代とそのあとに来る黄金時代のサイクルという幾千年にわたる夢との関係においてはなされないのだ。人々はもはや貧しき者たちの皇帝も、終末のときの王国も待たないし、太古からの夢だと想像される単なる正義の回復さえも期待はしない。要求され、目標の役割を果たすものは、根源的な欲求であり人間の具体的な本質として、彼の潜在的な力の成就であり可能なものの充満として了解された生である。それがユートピアであるかないかはさして問題ではない。そこには極めて現実的な闘争のプロセスがある。政治的対象としての生は、ある意味では文字通りに受け取られて、それを管理しようと企てていたシステムに逆らうべく逆転させられるのだ。権利よりもはるかに生の方が、その時、政治的闘争の賭金=目的となったのであり、それはこの闘争が権利の確立を通じて主張されたとしても変わりはない。生命への、身体への、健康への、幸福への、欲求の満足への「権利」、あらゆる弾圧や「疎外」を超えて、人がそうであるところのもの、人がそうありうるところのすべてを再発見する「権利」、古典的な法律体系にはかくも理解を超えた「権利」、それはこのような新しい権力の新しいやり方の全てに対する政治的対応であったが、しかしこの権力のやり方自体が、そもそも主権という伝統的権利に基づくものではないのである。  pp.181-182