えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

われわれは未来の自分に対してどのくらい関心を持っているのか Tappolet (2010)

The Thief of Time: Philosophical Essays on Procrastination

The Thief of Time: Philosophical Essays on Procrastination

  • Andreou & White ed. (2010) *The Thief of Time: Philosophical Essays on Procrastination*

【目次】
Part I
3 Sarah Stroud "Is Procrastination Weakness of Will?"
5 Jon Elster "Bad Timing"
7 Christine Tappolet "Procrastination and Personal Identity" ←いまここ
Part II
9 Elijah Millgram "Virtue for Procrastinators"
Part III
12 Chrisoula Andreou "Coping with Procrastination"

「特別な関心」と人格の同一性の理論

 われわれは未来の自己に対して特別な関心を持っているとおもわれます。この関心は、未来の他者に向けられる関心よりもかなり強いという点で特殊だと考えられています。さて、人格の同一性に関してこれを心理的な連続性に還元しようとする人々が一定数いますが(e.g. Parfit)、未来の自己へ「特別な関心」の存在に注目することでこうした説へ重要な反論がなされる考えられています。というのも……
【記述的議論】「特別な関心」は、過去現在未来の経験が帰属されるデカルト的自我が措定されればうまく説明されます。しかし未来の自己が現在の自己の因果的な(そして心理的な)継続者にすぎないとすれば、われわれがそれに未来の他の人々とは違う特別な関心を抱くとは期待できません。これは事実に反します。
【規範的議論】未来の自己に関心を持つことは当然合理的であると思われますが、しかしもし未来の自己が今の自己と因果的に後続するものにすぎないとすれば、この種の特別な関心を持つべき理由が見当たらないように思われるからです。
  〔以上のように、心理的連続性説は現在と未来の自己を分断してしまうと批判されます〕特に2つ目の議論の有効性に関してはさんざん議論がありますが、論争の重要な前提の一つが<われわれはふつう、未来の自分だと考える者に対して特別な関心を〔実際に〕持っている>というものです。この主張はどの位正しいのでしょうか? いくつかの異常で病理的な事例以外は正しいと考えられるかもしれません。しかし、特別な関心の欠如が病理的である必要はなく、先延ばしにおいてはごく普通に起こっているのです。  

先延ばしさまざま

  先延ばしは、単に後にすることではなく、何らかのいみで<悪いこと>です。ここでは、外在的理由と内在的理由のどちらの点でも先延ばしが生じうるよう、次のような定義が採用されます。

Sが行為Aに関して先延ばしているのは、ちょうど次の場合である。
(a)tにおいてもt+nにおいても、Sは自由であり、Aをすることが出来る(か、そう信じている)
(b)Sの理由は遅くともtにはAを行うよう要請している(か、Sはそう信じている)
(c)tになった時、Aはt+nにAを行うことを自由に決定する

自己に対する攻撃

  アンドリューは先延ばし事例は<時間的なフリーライダー問題>とみなせるとし、先延ばし行為のコストは無視できるほど小さいので、未来の自己への関心の欠如はここには含まれていないと論じました。しかしこれに対して次のような事例があり――
・ふつう先延ばしは何度も繰り返し起こので、かかる負荷は〔結局は〕かなり大きくなる。この事実にかんがみれば、行為者が本当に未来の自己に関心を抱いているなら、先延ばしはしないはず。
・先延ばしは未来の自己に対し取り返しがつかない負荷をかけることがある
・先延ばしによって嫌な行為を未来の自分にパスするような場合があり、これは明らかに未来の自己への関心を欠いた行為である。
――かなり多くの賢明でない(imprudential)先延ばしの事例が、未来の自己への関心を欠いているようにおもわれます。

人格の同一性の理論再訪

 では、<われわれは未来の自分への関心を持っていないことが結構ある>という事は上の2議論を脅かすでしょうか? 記述的議論の方は明らかに妥当性を欠くでしょう。一方規範的議論の中では、特別な関心の<現実存在>は役割を持たないように見えます。しかしそうではない。というのも、人が実際に未来に関心を持つならば、この人は恐らく現在の自己と未来の自己の同一性を信じているはずなので、この事実を「特別な関心」の合理性の根拠として引き、そこから心理的連続性説の説明の不十分さをつくことが出来ます(これが【記述的議論】)。しかし、人が実際に未来に関心を持っていない場合、相手にそもそも規範性の存在を認めさせる為には、現在の自己と未来の自己の同一性を説得することになるでしょう。この説得は、まさに現在と未来の自己を分断していると責められている当の〔心理的連続性説論者に〕通用しないのは明らかです。従って、人が未来への関心を事実あまり持っていないということは、記述的・規範的両方の議論を脅かすことになります。