えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

シティズンシップの理論 Kymlicka 2002[2005]

新版 現代政治理論

新版 現代政治理論

  • Will Kymlicka. (2002). Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Second Edition. Oxford. Oxford University Press.(2005, 千葉眞・岡崎晴輝訳, 『新版 現代政治理論』, 日本経済評論社)

 コミュニタリアンによるリベラリズム批判を受けて、リベラルな正義と共同体のメンバーシップの要求とを統合する試みがなされるようになった。その際に訴えかけられたのがシティズンシップという理念である。シティズンシップへの関心は、現実の情勢にも由来している。合衆国における有権者の無関心、東欧でのナショナリズム再燃、サッチャー政権下での福祉国家に対する反動などが明らかにしたのは、近代民主政治の健全性や安定性は、制度や手続きだけではなく、市民の資質や態度にも依拠しているということだった[415](これは、制度さえ整えば有徳な市民は必要ないという古典的リベラルの想定に反する)。[416]また、シティズンシップ理論の必要性は、パトナムの研究によって後押しされた。彼の研究は、ほぼ同じ制度を持つ戦後イタリアの地方諸政府が、市民の徳性に応じて非常に異なるパフォーマンスを示すと主張する。この研究自体には賛否があるとは言え、[417]政府の政策によって市民的徳を養成する(「陶冶のプロジェクト」(サンデル))必要性について政治理論家は考察しなくてはならないという点については、今や広い合意が得られている。それどころか、シティズンシップの理論によって正義の理論が必要なくなるとする研究者さえいるが、後述のようにキムリッカはこの点には批判的である。

 [418]本章では、まず必要とされている市民的徳とは何かを確認し(1節)、つづいて市民による政治参加に内在的価値があるとする理論と道具的価値があるとする理論を比較したのち(2・3節)、リベラルな国家はいかにして徳性の促進が可能なのかを検討する(4節)

第一節 民主的市民の徳と実践

 戦後の政治哲学において、シティズンシップは「諸権利をもつ権利」として理解されてきた(Marshall 1949)。シティズンシップが保証する権利には市民的権利、政治的権利、社会的権利があり、[419]国家がこうした権利を全ての人々に保証することで、その構成員は社会の完全な構成員だと感じることができるようになるとされる。このようなシティズンシップはしかし「受動的」なものであり、これを補う/置き換えるものとして市民的徳の発揮を求める議論が、〔初版から〕過去十年のあいだで盛んになってきている。

 [420]しかし具体的にどのような徳が必要なのか。今日の議論は、とくに現在の状況、つまり現代の多元的な自由民主主義に特有の徳を特定しようとしてきた。こうした徳の中には、政治権力に疑問を呈する能力と意欲、そして公共的討論に参加する能力と意欲が含まれる。[421]前者が必要なのは、代表制民主主義において市民には自らが選んだ代表を監視する義務があるからだ。後者が必要なのは、民主政治において政府の決定は自由で開かれた討論を通じてなされなければならないからだ。

 公共的討論に参加する徳は複雑なもので、単に自分の意見を述べるだけでなく、立場が異なる他人の意見に真剣に耳を傾けることまでもが含まれる(Galston 1991)。この徳は「公共的理性」(public reasonableness)と呼ばれることもある。というのも、リベラルな市民の政治的要求は、異なった信条や文化を持つ人々にとっても理解できる公共的な理由に基づくものでなくてはならないからだ。[422]しかし、何が公共的な理由なのかについては大きな議論がある。そして、公共的に共有しえない文化的・宗教的信念に基づく要求の対立が残ってしまう場合には、受容(accomodation)や妥協という異なる徳性が必要になる。公共的理性〔とその限界に〕ついてのこうした構想は特殊近代的なもので、それが今日取り上げられるのは、民族的・宗教的多様性の認識と同時に、現代民主主義理論における、投票中心主義から対話中心主義への「討議的転回」(Rryzek 2000)を反映したことでもある。このことについて説明しよう。

 投票中心の構想では、人々の選好は政治過程とは独立に形成され、しかもそれは利己的なものに傾きがちだと考えられていた。そして民主主義とはそうした選好を集計する手続きにすぎない。[423]しかしこうした理解では、人々の正当な要求とそうでない要求を区別することができない。このことはマイノリティの社会統合を妨げてしまう。この難点に対処すべく、投票に先立って行なわれる討論や意見形成がますます注目を集めている。[425]こうした討議的民主主義は、まず社会全体に利益をもたらす。討議なしでは表明されなかった洞察が引き出されることや、誤った前提があらかじめ破棄されることが期待される。さらに、社会の統合が高まるとも期待できる。なぜなら、全ての人が自分の意見に耳を傾けてもらう機会を得ることで、社会的意思決定はより正統なものだと見なされるだろうし、討議自体も絆を生むからだ。そして、討議的民主主義はマイノリティにとってはとくに利益をもたらす。マイノリティが多数代表的な選挙制度下で影響力を持つ方法は、公共的討論を通じて世論形成に参加することだからだ。[426]このように、討議的民主主義では市民は相互了解に向けて公共的に振る舞うと想定される。そこで、市民的徳性について論じることが急務になるのだ。

 もちろん市民に求められる徳の水準は高いレベルのものではありえない。しかしその水準をどこにおくのであれ、多くの人々は、市民の徳は近年ますます衰退しており危険だと考えている。実際、政治に関心を持つ若者が減っていることは社会調査からも明らかになっている(Glendon 1991; Heater 1990)。

第二節 市民的共和主義

 では、どのように能動的なシティズンシップを促進すればいいのか。この問題を中心的に扱ってきたのが「市民的共和主義」(civic republicanism)と呼ばれる潮流だが、[428]そこでは二つの異なる促進方法が提案されてきた。第一に、能動的シティズンシップの要求には内在的価値があるため、良い人生を送るためにその要求によろこんで応えるべきだとする立場がある(「アリストテレス主義」)。第二に、能動的シティズンシップは民主制度の機能維持や基本的自由確保のための道具的価値を持つとする立場がある。本節ではまずアリストテレス主義を扱おう。

 [429]アリストテレス主義は完成主義の一例である。だがそこで言われるような良い人生の構想は、近代人の理解とはかけ離れている。実際、なるほど「古代人の自由」が政治参加への自由であったのに対し、「近代人の自由」とは私的生活を営む自由であり、政治参加はその手段ないし妨げとしか見なされない(Benjamin Constant)。[430] これに対しては、近代における私的生活の強調を批判して、真に人間的な生活のためには社会が必要であると論じるものもいる。しかし既に見たように、リベラルも社会の必要性そのものは否定しない〔(→6. 8. B:リベラルは、その「社会」とは「国家」であるという主張に反対しており、国家よりも小さな集団に善の集合的探究の機会を見いだす)〕。[431]そこでアリストテレス主義者は、単に社会の存在だけでなく、とりわけ能動的な政治参加が個人にとって必要だと論じねばならない。

 [432]政治参加の内在的価値への関心が薄れてしまったのは、古代ギリシアと比べて現代の政治的生活が貧しくなったからだとされることがある。貧困化の原因は、大規模化、貨幣、メディア、専門家などにある。これらを取り除き、より人間的な規模の政治的フォーラムを作れば、人は自ずから政治の価値に気づくはずだ、とアリストテレス主義者は言う(この見解は、公共的対話を従事する討議民主主義とも符合する)。[433]しかし、キムリッカの考えでは、仮にこうした政治的フォーラムへの移行が生じても、人はやはり政治とは犠牲を強いるものだと感じるだろう。というのも、近代人が政治に参加しない理由は、政治生活の貧困化(だけ)ではなく、私的生活が豊かになったことだからだ。これに対し、豊かになった私的生活りも政治が重要だとする十分な根拠を、アリストテレス主義者は提出できていない。

 [434]アリストテレス的共和主義はコミュニタリアンと似ているが、その一種というより亜種である〔※原文では、「二階のコミュニタリアニズムである」〕。というのも、一方で伝統的コミュニタリアンは、共有された既存の目的を促進するために政治に参加する。しかしアリストテレス的共和主義は、そうした共有された目的の存在を前提せず、その代わり、政治参加それ自体を共有された目的とするからだ。しかしいずれにせよ、良い生活にかんする単一の構想を特権化する試みはいずれも、近代社会では失敗するだろう。

第三節 道具的な徳

 従ってリベラルは、アリストテレス的共和主義を受け入れることはできない。しかし、市民的徳は公正な制度を生み出すために道具的価値を持つと主張することで、市民的徳を擁護・促進することは可能だ(ロールズの用語では、リベラルは「公民的人文主義」とは対立するが、「共和主義」とは両立する)。[436]この見解によれば、リベラルな市民は、公正な制度を作り、維持するのに最低限の徳を発揮する義務を負うことになる。ただし、制度がどの程度健全であるかは時と場合によるので、幸運に制度が健全な場合には、個々人は自らの善の構想を自由に追求すべきである。

 [437]このようにリベラルは市民に対して、公共的理性のような「政治的」徳をあまり大きくは要求しない。しかし上で確認したように、リベラルは、個々人の善の追求のためには〔国家ではなく〕市民社会というアリーナが必要だと考えている。ここからリベラルは市民に対して、市民社会を維持するための徳、すなわち「市民性」(civility)・「品位」(decency)といった「社会的」徳を要求することになる。これらの徳は、顔を突き合わせて接触する他人への接しかたに関係するものだ。この点で、リベラルなシティズンシップは、伝統的な受動的シティズンシップでは捉えられないものになっている。というのも、受動的シティズンシップは、単に他者への不干渉を要求する消極的なものだと理解されてきたからだ。

 では「市民性」とはどんな徳なのか。差別禁止の要請との関連で説明しよう。差別の法的禁止は、かつては政府の活動だけに適用されていた。しかし、個人が真の意味で平等者として処遇されるか否かは、政府の活動だけでなく、市民社会の諸制度(企業、学校、商店……)にも依存している。そこで差別の法的禁止は私的団体にもますます適用されるようになってきた。これにより、個人のありふれた意思決定の中にも、人々を平等者として処遇する義務が入り込むようになってきた。リベラルな市民は、日常生活の中で、自分が偏見を抱いていたかもしれない人々とも対等にかかわりあうことを学ばねばならない。〔これが市民性を養うということだ〕。市民性の要求が、あらゆるインフォーマルな場において「法的に」強制されることは不可能だろう。しかしそうした法的に強制されない場面でも、リベラルなシティズンシップはやはり市民性の発揮を求める。

 [439] 市民性は、表面的な「良い作法」という美的構想と混同されやすい。この混同のために、市民性は見かけを取り繕うことしか求めずに他人のニーズに対する根本的な無関心を正当化しているといった批判や、市民性は異なる宗教的立場への蔑みを公にすることを禁じるので特定の宗教的構想を台無しにしてしまうといった批判が投げかけられている(Cuddihy 1978)。さらには、抑圧された集団による激しい抗議が、市民性の名の下で批判されたりする。しかし真の市民性とは、どんな状況でも表面上行儀良くするということではない。市民性とは、他者が自分に同等の承認を与えるという条件のもとで、他者を平等者として処遇するということだ。

第四節 市民的徳性の苗床

 しかし、どのようにして道具的な徳を市民に持たせればよいのか。一つには、徳を発揮する法的義務を課すことが考えられる。しかしこの手法は負担が重く、しかも人々が「責任ある仕方で」政治参加する事は保証しない。[441]さらに言えば、嫌いな政治活動への参加を強制されることで、人々の政治への憤りは増すかもしれない。はじめは嫌々ながらでも、政治参加を通じて徳が養われるようになるという考えもあるが(ルソー、ミル)、これは楽観的にすぎる。政治参加と「責任ある」政治参加は別であり、前者によって後者ができるようになるのはなぜなのか、説明が必要である(Mulgan 1991)。
 そこで多くの学者は、より間接的なアプローチをとる。市民的徳を育成するような社会制度や慣習(「市民的徳の苗床」)を特定し、維持しようというのだ。例えば、次のような制度が挙げられてきた。

市場

 ニューライトは福祉国家が人々を受動的にすると批判している(4章)。そして、シティズンシップの重要な要素であり、また社会の完全な構成員になるための前提条件である、自活(self-supporting)を生み出すものこそ、市場であると主張している。[443]さらに、市場は市民性を生み出すともいわれる。というのも差別的な企業は競争で不利になるからだ。

 なるほどたしかに、市場は自発性を教えるかもしれない。しかし、市場化は貪欲や経済的無責任も生み出している。市場は正義や社会的責任の感覚は教えないのだ。また、国民の大部分が特定集団への偏見を持っていれば、企業はむしろ差別的になるだろう。

市民社会の自発的結社

 教会や家庭、労組のような自発的結社こそ市民性を養うという主張がある(Waltzer 1992a)。こうした団体のメンバーは、責任を果たせなかった場合、他のメンバーから非難をうける。[444]これは、責任ある行動へのインセンティヴとして、非人格的な国家による処罰よりも強力だろう。しかし、自発的結社が徳を養うという経験的証拠はほぼない。むしろ組織は、従属や不寛容の温床となる可能性もある。ウォルツァーは、そうした不公平な結社は政治的是正を受ける必要があると論じる。ただしこうした介入を許せば、結社の自発的性格は失われるだろう。だが、それこそ結社を徳の苗床足らしめる特徴だったのだ。結局、自発的結社の存在理由は、何か特定の価値や人間関係を尊重することであって、それはシティズンシップとは特に関係ないものかもしれないのだ。そうである以上、シティズンシップの涵養を自発的結社に期待しすぎることはできない。

家庭

 9章でまたとりあげるが、家庭、特に育児が市民性を養うという見解がある(Ruddick 1987)。育児は、生命を守り弱いものを保護する責任を女性に教えるからだという。[466]しかし、母と子の間にふさわしい徳が、どのように市民性へと転換できるのか、全く明らかではない(Dietz 1992)。

教育制度

 多くの理論家は、徳を涵養する場を教育制度に求めている。[447]もちろん学校教育も、服従や排外主義の温床となってきたが、しかし市民的徳をはぐくむ場として(再)組織することは可能だと考えられている。さらに、若者に影響を与えうる様々な制度の中でも、学校は、国家による規制に対する反論が最も少ない(Weinstock 2001)。このためリベラルは、様々な社会的病理への対策を学校教育に求める傾向がある。

 [448−449]リベラルな学校教育は、生徒が自身の属する共同体や文化からある程度離れ、他の共同体や文化の人々と交流することを理想とする(「引き離された学校」の理想(Levinson 1999))。だがこれには批判もある。伝統や権威の無批判な受容に依存する集団(アーミッシュなど)は、独自の宗教学校や在宅教育の創設や、リベラルな徳を要求するカリキュラムの免除を求めてきたのだ。なるほど「引き離された学校」は、多様な環境での「統合教育」を「一定期間だけ」求めるものでもあり得、必ずしも分離教育や在宅教育を否定しない。しかし一定期間の統合教育にすら、多くの保守的宗教団体は反対するだろう。こうした団体は近代国家を邪悪なものとみなしているのだから、近代国家を機能させるためには徳が必要性だと説いても説得できない。

 [450]リベラルな国家において、〔国民全てに対する〕統合教育が本当に必要なのだろうか。ここで、通常のカリキュラムの免除を求める集団を二つに分けて考えよう。一方でアーミッシュのような集団は、政治や市民社会の主要制度へ参加する権利を放棄している(「部分的市民」:Spinner 1994)。従って、そうした権利に伴う責任(例:市民的徳を養うこと)を果たさなくてもよいと考えることもできる。[451]他方、宗教的原理主義者のような集団は、政治や制度への参加を求める以上は、市民的徳の教育を拒否できないだろう。

 ただし学校は全体社会の一部であるから、その目標が社会制度によって支持されなければうまく機能しえない。従って学校は、他の社会制度から本当に引き離されることはできない。〔こうした点から考えても、〕学校を含め市民的徳の「唯一の」苗床が存在しないことはあきらかであり、リベラルは一連の制度から一連の徳性が得られることを望んでいる。

 しかし、〔徳は発揮されないと意味がない〕。道具主義によれば徳の発揮それ自体に価値はないのだから、他の目標や選好と衝突するときなぜ市民が徳を「発揮する」ことを選ぶべきなのかをリベラルは説明しなくてはならない。[452]ここで前章でみたテイラーの挑戦が再浮上する。市民は互いに衝突する善の構想を持つにもかかわらず、なぜ同胞市民のために犠牲をはらう法的義務を引き受けねばならないのか。

 リベラルの答えは前章と同じである。正義感覚の共有が市民を連帯させるというものか、言語、歴史、制度などがさらに必要だとするものか(リベラル・ナショナリズム)、どちらかだ。[453]後者のような国民建設(nation-buildng)をリベラルは避けたがるが、しかし市民的徳性の重要性や討議民主主義を唱える理論家は事実上共通の言語の存在を前提しており、従って国民形成の適切さも前提にしているのだ。実際リベラル・ナショナリストたちは、市民的徳性や討議民主主義を強調することは、その前提条件である国民形成を支持することだと論じている(Miller 1995; Kymlicka 2001)。

第五節 世界市民的シティズンシップ

 こうしたリベラル・ナショナリズムのアプローチは、世界市民的シティズンシップの観点から批判されることがある。超国家的制度の必要性がますます増している一方で、国連など既存の超国家的制度に対する市民の直接的参与はほぼなく、「民主主義の赤字」が生じている。しかも超国家制度にかんしては、そこで必要な市民の徳性や正義にかんする理論化がほぼなされていない。[455]こうした状況のなかで、国民性を強調するリベラル・ナショナリズムは、超国家レベルの民主主義の必要性を無視し、それにかんする理論化を不可能にしてしまっているとされるのだ(Held 1995; Young 2000b)。

 だが、リベラルナショナリストは超国家的制度の必要性を否定するわけではない。EUを例に考えよう。EUの意思決定の中心は2つある。一つはヨーロッパ規模の選挙で代表が直接選出される「欧州議会」、もう一つは各国の政府によって代表が指名される「欧州委員会」および「閣僚理事会」だ。対応して、民主主義の赤字を解消する方法のひとつは、欧州議会の権原を強めること、もう一つは、欧州委員会や閣僚理事会での代表者の行動の責任を各国政府が強く負うことだ。世界市民的シティズンシップの擁護者は第一のアプローチをとりたがるが、ほとんどのヨーロッパ人は明らかに第二のものを好んでいる。[436]例えばデンマーク人は、EUのなかでヨーロッパ人が何をすべきかを全ヨーロッパ人と話し合いたいと思っているわけではない。EUのなかでデンマーク人が何をすべきかをデンマーク人同士で話し合いたいと思っているのだ。[437]実際、もし前者のアプローチをとるとすると、市民がシティズンシップを発揮してヨーロッパ横断的討議に参加することなど現実的には不可能なのだから、かえって民主主義的シティズンシップは掘り崩され、民主主義の赤字は増す一方だろう(Grimm 1995)。従って、民主主義的シティズンシップが発揮される場はやはり国家でありつづけるだろう。そうした国民国家のうえにこそ、世界市民的民主主義を発展させるべきなのだ。

第六節 市民的共和主義の政治

 戦後のほとんどの政治理論における基本的な規範概念は、(手続きを評価するための)「民主主義」と(帰結を評価するための)「正義」だった。これに対し近年、あらゆる政治的立場がシティズンシップに注目している。しかし今日の理論家は、自身のシティズンシップ理論を具体的な公共政策の問題に適用することに消極的だ。シティズンシップを養うことが重要なら、なぜ良きサマリア人法、投票の義務化、私立学校の廃止等などを主張しないのか。[459]それどころか、シティズンシップが実のところどのくらい緊急に必要なのかについてもまともな議論がない。たしかに投票率の低下は事実だが、若者はより寛容に、他者の権利を尊重するようになっているし、[460]政党中心の国政への参加とは異なる「対抗公共圏」はますます盛んになっている(Fraser 1997: Phillips 2002)。

 こうしたことは次のことを示唆する。今日のシティズンシップ論の隆盛を額面通り受けとるべきではない。シティズンシップという新しい言葉は、正義に関する旧来の理論をカモフラージュするために使用(誤用)されているにすぎないのだ。1980年頃までに正義論は袋小路に陥り、各種の立場(リバタリアン、リベラルな平等主義、功利主義、コミュニタリアニズム)の間で優劣を付けることは明らかに不可能になった。そこで、正義とは異なる概念に訴えかけることで、自らの支持する政策を擁護することが必要になった。その役割を果たしたのがシティズンシップだったのだ。

 実際、正義に訴えたリバタリアンの福祉国家批判は失敗したが、シティズンシップに訴えたニューライトの福祉国家批判は成功した。[461]同様に、リベラルな平等主義による所得格差批判も、正義に訴えているうちは失敗したが、金持ちによって貧民の選挙権が買われることになるとシティズンシップに訴えたときには成功した。また女性の権利やゲイの権利が「不自然だ」「堕落している」という文化的保守主義の主張は説得力を失ったため、[462]今日では、伝統的家庭こそが市民的徳の苗床なのだと主張されるようになっている。

 どの場合でも、シティズンシップへの訴えかけは正義からの戦略的撤退なのだ。もちろん、戦略的撤退であるからと言って議論の説得性が落ちるわけではない。しかし注意すべきなのは、シティズンシップに関する新しい理論は、どう見ても、市民的徳性の客観的な探究ではないということだ。[463]それぞれの立場は、すでに正義の観点から支持されている事柄について、それをシティズンシップの観点から擁護しようとしている。ここから何か新しい結論が得られるかどうかは、全く明らかではない。