えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

不道徳な実践を行う文化の人々が持つ責任概念は不合理なのか Sommers (2011)

Relative Justice: Cultural Diversity, Free Will, and Moral Responsibility

Relative Justice: Cultural Diversity, Free Will, and Moral Responsibility

  • Sommers 2011 *Relative Justice*

  ここで検討したい最後の反論は、競合する責任に関する考え方の不合理性を間接的な形で示そうとするものである。こう議論されるかもしれない:われわれは、道徳的責任とは直接的には関係ないかたちで行われている別の実践の故に、たとえばベドウィン族やコルシカ人の態度を退けねばらなないのだ、と。たとえば、私は第二章で名誉の殺人を引いて、これを名誉文化は責任の帰属にあたって意図をあまり重要視していないことの証拠とした。このことは、名誉の殺人が不道徳であると仮定すると(私はそう思うが)、この文化が加害者の意図を考慮に入れないということもやはり非合理的で不道徳なのだということを示唆していないだろうか?
  私はそうではないと考える。なぜなら、実践の非道徳差は道徳的責任とは何の関係もないからである。われわれが名誉の殺人を非難するのは、(意図的であれなかれ)婚外交渉をした女性を殺すという実践が道徳的におぞましいものだからなのである。責任の帰属の際に意図を考慮するべきか否かと、名誉の殺人を行うべきか否かは、別の問題だ。それが奴隷制を支持していたからと言って、われわれは建国の父たちの個人主義的な正義・責任の捉え方を捨てたりはしないのだ。もし、全面的に異論の余地のない道徳実践を行う文化の直観のみを受け容れるのだとすれば、受け容れることができる直観は恐らく一切存在しなくなるだろう。さらに言えば、私がこれまでひいた殆どの直観のばらつきが由来している社会を、われわれ自身の社会よりも全体としてより道徳的でないなどと考えるべき理由は何もない。肝心なことだが、責任に関する諸態度はそれぞれ自身の観点から評価すべきだ。もしそれを非合理だと言いたいならば、その態度が現れている文化が道徳的責任とは関係のない事柄に関して非合理あるいは不道徳な信念を持っているということ以上のことを示す必要がある。  pp. 107-108