えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ドイツ・ロマン主義は死んだ グラック (1961=1978)

偏愛の文学 (1978年) (白水叢書〈29〉)

偏愛の文学 (1978年) (白水叢書〈29〉)

  • グラック ジュリアン (1961=1978) 『偏愛の文学』(中島昭和訳 白水社)
    • 「ノヴァーリスと『青い花』」

ぼろをまとった総裁政府の軍隊がヨーロッパ各地を略奪し寸断していたとき、時の偶発事件などはみごとに遮断した不感無覚の防壁の中で、イエナその他の場所におけるもっぱらの関心事は、まさに黄金時代の全面的即時的獲得にほかならなかった。審美的な配慮はきわめて不十分なままにとどまる。時間が無かったのだ。「作家という職業は二義的な活動である」(ノヴァーリス)。詩篇[ポエム]を作るという要求はいささかもなかった。これまた後にシュルレアリスムが企図するように、ついに実践に移された〈詩〉[ポエジー]が支配することになる。実践される〈詩〉こそが絶対的な〈現実〉なのだ。  p. 265

 ノヴァ―リスは、このような楽園を志向する革命におけるサン=ジュストであった。単にハデルの画がわれわれのために永遠化したその顔容の美、すべての友人の眼に明らかな選民のしるしをもって映るようにさせた天使的な美しさによってサン=ジュストに通ずるばかりではない(「是非とも彼をなくてはいけません」とドロアーテ・ファイトはシュライエルマッヘルに書き送っている〔……〕)。また単に青春のさなかに夭折した生涯という点でというのでもない。さらにそれ以上に彼にしか無い鋭い光輝、何かしらこの上なく静穏な感じ、いかにも饒舌なあのロマン派の人々の中にあって、彼を断章の大家、簡潔かつ断定的表現の巨匠たらしめているところの穏やかにしてゆるがぬ気配、肯定の絶対性という感じにおいてサン=ジュストと通じあうのである。道徳上の観念を、道徳とは最も無縁と思われる領域に導入してくる、きわめて特異な領界侵入的なやり方においても両者は似ている。(「全〈自然〉は〈徳〉の息吹によってのみ存在する」この奇妙な箴言はノヴァーリスのものであるが、サン=ジュストが言ったとしても差し支えないほどのものであろう)。また、内部にあって固定した楽園の明らかな影像に則って人間と世界を改造しようとする不変の決意によっても、さらにこれこそ言わなければならないが、障害の感覚がほとんど完全に欠如しているということにおいても両者は相通じている。  pp. 287-268

〔『青い花』の〕第一部を特徴づけているもの――同時にノヴァーリスがほかの人よりもさらに大胆にドイツ・ロマン主義をその野心の限界にまで突き進めることを可能にしているもの――は、葛藤の感覚とも言うべきもののほとんど完全な欠如である。物語の枠組みとなっている時代は中世、年代的にはきわめて限定しがたい中世である。ドイツ・ロマン派の人々の中世に対する好みは、後のユゴーの場合のようにその風俗の魅力に基づくものではない。おそらく人が考えてきたほどには、熱烈な神秘主義の時代に対して彼らの抱いていた郷愁に基づくものでもないだろう。彼らにとって中世とは、〈疾風怒濤〉に倣いつつ〈啓蒙主義〉に対置しうる歴史的依拠の権威であるにとどまらない。いみじくもリカルダ・フッフが言っているように、中世的背景――明確な線を描く、漂うようにおぼろげなそれ――は彼らにとって何よりもまず、硬い現実世界の影絵となっているのだ。むしろ彼らは「どこにも衝突を起すまいと思っている」自我を宿らせるための、やんわりとした超時間的なるものとしての中世的背景を利用しているのである。(ついでながら指摘すれば、いまわれわれの時代に付きまとう固定観念となっている、あの「地理的、時間的に位置づけられている人間の条件」から、ドイツロマン主義ほど雄々しくまた倣然と自らを解放しようと望んだ運動はない)。重力もなく、不透明さもなく、苛烈さもない――『青い花』の中の――すなおに夢になじむ〈世界〉、生きている人間を絶えず躓かせる石がすべて取除かれている〈世界〉、他者との調和、精神と精神との自由にして透明な交流が、何の努力も要せず自然に成立するように見える〈世界〉。〔……〕「自然〔は〕必ずしも詩人ではないとしても、そして、人間の場合と同じく自然の中にも無感覚・遅鈍という敵対者がいて、絶えず詩精神に戦いを仕向けてくるとしても」、そういう不活発・無活動の要素をまったくどうしようもなく否定的なものとみなすことはできない。それはひとつの制動力に過ぎず、絶対の悪とはなりえないからである。要するに、「〈自然〉は〈徳〉の精神を通じてしか存在しない」のであり、とりかえしのつかぬ呪いが自然にとりついているわけではないのだ。〔……〕「人間は自らそう望めば、あらゆるものを高尚にすることが出来る。すべてのものを自分にふさわしいものとすることができるのである。」病気ですらそうだ。ノヴァーリスは病気というものにつねに積極的な活力の要素、上昇的指標を見ようとしている。「石の病気は植物化すること、植物の病気は動物化すること、動物の病気は理性化することである」極めて卑俗な仕事も高尚とされる。たとえば、〈商取引〉すら。〔……〕ほかのいかなる書物の中にもおそらく較べるものとてないであろうふしぎな透明さ、『青い花』の世界の浸っている、一滴の毒にも濁されていないあの朝明けのような透明さはそこから生まれている。完全に詩の中に溶解しうる世界。葛藤のない、歴史のない、宿命のない世界。すでに人間に向かって歩み近づきつつある――人間によって理解され、浸透され救い出されることを熱望している世界。  pp. 274-277

ドイツ・ロマン主義はいささかの反抗をも含まぬ革命である。  p. 278

ドイツ・ロマン主義は若い盛りに死んでしまった。ノヴァーリスの死後十年も経たぬうちに、友人シュテフェンスがイエナを訪れると、町はあたかもゴースト・タウンの趣であった。もはやだれもいない。たった一人残っていたのは「チビのグリース」だけ。彼は古い洪水の水位を示すあの壁の上の印のように驚くほど若々しさを保っていた。「彼の瀟洒な小部屋に入って行ったとき、私は激しく胸を衝かれた。衣装箪笥もテーブルも椅子も胸像も、十年前と同じ場所にあったのである。昔と同じ女中が私に挨拶した。小柄な詩人は昔に変わらぬ黄色い顔色、黒い瞳をして今もここに坐っている。彼もそして周囲のものも、美しく生き生きとしていた一時代の、香をたきこめた亡骸のように私には見えた。」十年前と言えば一八〇一年のことである。一つの敬虔な手が、これらの行文をとおして時計の針を止めているかのようだ。多くの人にとって、まさにここで一つの心臓が鼓動を止めたのだということが痛切に感じられる。最初のロマン主義は滅び、イエナは空虚になった。だがノヴァーリスは神々に愛されていたのだ。彼とともに、永遠にではないとしても(『青い花』のなかで彼自身、洞穴において片眼でしか眠らない伝説の〈赤髭〉のことを喚起していたではないか)、久しいあいだ、みずみずしく清らかな、朝の気に満ちた――とはいえこの世界と同じように古い――希望も消え去ったのであった。シュテファンスはさらに続けて言う――「彼の言葉が、精神の深い過去の底からふとたち現われてくるように思われたのである。」  pp. 284-285