- 作者: Margaret Gilbert
- 出版社/メーカー: Princeton University Press
- 発売日: 1992/03/23
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- Gilbert, M. (1989) *On Social Fact* (Princeton Univ Pr)
複数的主体のメンバーであることは、自分が行ったことに責任があるという事から逃れる方法を与えてくれるだろうか? 例えばボブが、集団のメンバーとしての立場からアランを蹴った場合、その残酷な蹴りに個人的な責任があることを実質的に否定することが出来るだろうか?
ボブが(意図的に)アランを蹴っている限り、ボブはアランを蹴ったことに責任があるとされるだろうと想定するのが尤もらしいと思われる。このことが示唆しているのは、責任の概念が組み込まれている概念枠組みは、ボブの意思の働きが(つまり意図的に)蹴りを作動させた限り、ボブは起こったことに個人的に責任があるというようなものだということである。ここできれいな対比を示す事例は、意志の働きを含まない(従って「非意図的である」)と推定される膝反射のようなおなじみの出来事なのである。
アランを蹴るということが自分の個人的な欲求を表出していなかったという事実において、ボブに何らかの責任の軽減があるだろうか? ボブは、アランを蹴るに際し、言わば、自己を表出していたわけではなかった。このことは、彼を(言わば)<彼自身という点においては>あまり酷く裁かないようにさせることもあるだろう。似たような考察は、様々な物事に関する我々の評価に影響を与えるかもしれない。例えば、ローカルな習慣とは別の行為をされて我々がイヤだなと感じるような場合にも。しかし、ナチのホロコーストという文脈での「私は命令に従って行為しただけだ」という弁護に対する反応に見られるように、集団の行為に参加したんだということにただ単に訴えることで自分自身の行為の責任を回避することが出来るとは、人々は思っていない。
特定の集団のメンバーとしての立場から行為した人物には、二つの異なる種類の責任の帰属がひきついてくるのだと思われる。もしボブ自身がアランを蹴ったなら、その場合彼はこの蹴りに関して個人的に責任があるとされるだろう。同時に、ボブは集団のメンバーとしても責任があるとされるだろう。というのも、ボブがアランを蹴ったことがグループの行為(アランを攻撃するという行為)の一部である限り、恐らく彼はこの蹴りに関して、個人的に責任があるのと同じように、集団のメンバーとしても責任があるとされうるからだ。集団のメンバーとして責任があるとされている点では、ボブはその他のメンバーと全く同じ地位にいる。こうした、「集団のメンバーとして責任があるとされること」は、<他の人と一緒に責任があるとされること>あるいは<責任のある集団のメンバーであること>と等価であるとおもわれる。ここまでの議論が示すように、そもそも集団に行為の責任があるされうる限りで、<集団に責任があるということ>と<特定のメンバーにその行為の責任があること>は不両立なわけではない。ただし、全てのメンバーに個人的な責任があるとされる必要があるというわけではない。 pp. 426