えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

徳の存在の擁護 Sosa (2009)

Philosophy of the Social Sciences: Philosophical Theory and Scientific Practice

Philosophy of the Social Sciences: Philosophical Theory and Scientific Practice

  • Sosa, E. (2009) "The Situationist Attack on Virtue Theory"

1 攻撃の提出

・ミルグラム実験やよきサマリア人の実験などを根拠に、徳倫理学や徳の心理学に攻撃が加えられている。批判のポイントは二つある。
行動の予測や説明に重要な性格特性という点では、人は多様であるわけではない
・徳倫理が考えるような徳という規範的理念によって、人間の行為が導かれることはとてもありそうにない

1.3 ハーマンの場合〔Harman (1989-99)〕

・普通の考え方によれば、<人が性格の点で異なっている>為には
 ・十分に似た状況で人々がばらばらに行動しなくてはならない
 ・特性とは、かなり広範な状況で特性関連行動へと傾向づけるような傾向性でなくてはならない。
 しかし、経験的知見は<行動上の差を説明するような重要な性格特性の違いはない>事を示していると考えられる。人々の行動の違いはむしろ状況の違いに由来する。
・ハーマンはニスベットとロスに従い、<性格特性>と<持続的な目的や戦略>を区別し、我々は無価値な証拠に基づいて性格特性の帰属を行うという「根本的な帰属の誤り」をしょっちゅう犯していると主張する。確かに人は一貫した仕方でふるまうことがあるが、それは性格特性の故ではなく、社会的な世界に関して一貫した解釈の仕方をし、一貫した目的を一貫した戦略で追及しているからにすぎない。

1.4 ドリスの場合 〔Doris (1998)〕

状況主義者は3つのコミットメントを持つとドリスは理解する
(1)人々の行動上のヴァリエーションは、人々の性格特性のヴァリエーションよりも状況のヴァリエーションに負う
(2)特性は状況のヴァリエーションを通じて影響を受けやすいもので、グローバルなものではない
(3)様々な性格特性は、整合的な性格に統合されているわけではない
(ただし、状況特異的なローカル特性の存在は認められる)

・二人とも「性格はない」と言っているのではない。両者とも特性の存在を信じているが、それが、素朴にあるいは徳倫理学というアリストテレスの伝統によって考えられているようなものではないと主張している
・個人間で見ると、性格特性は珍しく突出したものでも、広く共有されているものでもありうる。また、ローカルなものでもグローバルなものでもありうる。結局状況主義者の主張とは、性格特性は(少なくとも普通考えられているよりかなり)広く共有されており且つローカルだと言わねばならないということである。

・状況主義者が徳倫理学者に同意できる点もある:人々は、誠実さや優しさや勇気や節制という観点で様々な振る舞い方をする(ことができる)。つまり、<評価の上で重要な行動のヴァリエーション>が存在する。
<共有について>
・性格特性が広く共有されているなら、特性は<〔個人間の〕行動のヴァリエーションの説明>には使えなくなり、<突出した特性>か<状況の違い>に訴える必要がある。ただしそれを<〔個人内での〕個々の行動、行動パターンの説明>に使うことはできるかもしれない。
<局所性について>
・ローカルな特性は、ローカルないくつか状況において特性関連行動を出力する。〔一般に、〕傾向性には程度があるのである。そして、ローカルな誠実さというのは、程度の低い誠実さしか持っていないということなのかもしれない。常識的な徳心理学は、〔性格特性の局所性が、その特性を徳と言うのに然るべき程度のグローバルさに〕全然達してないことに驚くかもしれず、徳は様々な程度もつと仮定する事で甘んじることになる。

2 攻撃の評価

・多くの徳理論家が、批判者は徳心理学(VP)をあまりに荒っぽく行動主義的にとらえており、内的な熟慮の複雑性を無視していると批判している。
 ・荒っぽいVP:状況/行動の傾向性に直接焦点を当てる
 ・洗練されたVP:状況と行動の間に状況/態度の傾向性を挟む:ここで問題となる性格とは、動機や欲求や目的を含む広範な総体であり、合理的主体はそれらを(内的に)整合的にまとめ上げている。ある徳を持つことは、関連する状況全てで特性関連行動を行うことを必要としない。徳が不十分なのかもしれないし、他の徳の方が優先順位が高いかもしれない。

洗練されたVPの例:実践的知恵

・yes/noの選択について熟慮しているときには、それに賛同する良い理由と反対する良い理由があり、それがその状況での<理由の構造>を構成する。こうした<理由の構造>に対応して、積極的/消極的な動機付け理由(心理的な誘因)の構造(<動機の構造>)が存在している。
・実践的知恵は、<動機の構造>が<理由の構造>に一致している分だけ発揮されていると言える〔(おばあちゃんに席を譲る良い理由があるなら、そのように動機づけられよ)〕
・徳を発揮するためにはそれが所持されていなくてはいけない。ある人の持つ実践的知恵の程度は
(a)自分の<動機の構造>の中に、人間関係や出来事の過程のなかで生じる様々な状況がもつ適切な<理由の構造>を反映させるよう、どれだけよく、安定して傾向づけられているか
(b)この傾向性がどれだけグローバルか
に比例する。

・ではこの理論で状況主義の攻撃は退けられるか?
→無理っぽい〔(ミルグラムの実験では、被験者はやるべきでないと思っていることに動機づけられてしまっている)〕
→徳理論は、状況主義者が実践的知恵その他の徳のグローバルさに正当な疑念を投げかけていると認めるべきだろう。

徳理論の擁護: 運転状況主義

・しかしここから、<人は実践的知恵や、(適切に統合された場合に)実践的知恵を構成する諸徳の構造を持っていない>という主張を引き出すのは妥当でない推論である。この種の誤りを指摘することで、<荒っぽいVP>に対する攻撃をも鎮静化させることが出来る。

【道徳能力を運転能力と比較せよ】
・運転能力は、実際に運転するときは安全に、そして目的地に向けてのルート選択に関して効率的な運転を生み出す傾向性と定義する。この能力にも、<グローバル/ローカル>および<突出/広く共有>の区別が当てはまる。
・二人の人物の<評価の上で重要な行動のヴァリエーション>は、広く共有される能力に訴えては説明できない。むしろ能力における何らかの違い、それが無ければ状況の違いによって説明される。
・安全・効果的な運転には様々な要因が影響を与えるだろう。そこで人は、<運転状況主義>を展開するかもしれない
(a)運転行動における<評価的に重要な行動>の説明では、状況が支配的な役割を果たす。
(b)我々の運転能力のグローバルさは問題視されている。というのは、これまで思いもしなかった要因に応じて運転能力が大きく変化することが発見されているからである
(c)運転能力に関する個人内での統合は普通考えられているより一般にみられるものではない。例えば、運転中の操作能力はナビゲーション能力と必ずしも軌を一にしていない。
→これは上に引いた状況主義の本質そのままだが、〔統合された〕運転能力がただの幻想だとか、誰が有能な運転手なのかに関して我々は抜本的な誤りを犯しているとか主張するのはあり得ないように思われる。
・一般に、行動は傾向性と(そのトリガー条件である)状況の2つによって説明される。ある要因が運転能力に影響を与えていることが驚くべきことなら、確かに運転能力に関する我々の見解には不適切なところがある。しかしそこから、訂正のために能力の方を廃棄せよという事には全くならない。むしろ、〔トリガー〕条件や内的なバイアス、能力の条件的な構造に関して見解を改める必要があるのである。

教訓

・徳倫理学への教訓:驚くべき影響要因の発見は、道徳能力の存在の否定ではなく、〔その要因への感受性を高めることで〕能力を改善することにつながる。
・徳心理学への教訓:排除ではなく改定。様々な要因が能力に影響する。こうした要因は能力そのものを変化させてしまうのかもしれないし、トリガー条件の方を変化させるのかもしれない。いずれにせよ、これまでわれわれが楽観的に自己帰属してきたような、実践的知恵あるいは運転能力のロバストさは無いということがわかってきた。しかしこの事実から、運転能力や実践的知恵が単なる幻想だという結論にジャンプすべきではない。

徳理論と状況主義者はそもそも対立しているのか?
  • 1:徳理論は、<評価の上で重要な行動のヴァリエーション>がおもに徳によって説明されるべきだと主張しない。〔このことと、個々の行動が徳の帰属によって説明できるということは両立する〕
  • 2:徳理論は、まさに徳理論が想像してきたような徳は無いことを受け入れなくてはならない
  • 3:状況主義者は徳のことは忘れろと言うが、行動の説明は状況関連する傾向性の両方という2点で説明される。どちらの方に極端な説明も受け入れがたいように思われる。
  • 4:そうすると、残る係争点はほとんど程度問題ではないか? :人間の徳はどの程度グローバルなのか
  • 5:バラバラの能力が全体としての「運転能力」に統合できるのかという点でも争いがあるかもしれない。しかしここで常識は訂正を行う必要があるのだろうか? 徳心理学の言う<徳の適切な「統合」>に対するドリスの攻撃は真の問題でありまだ解かれていない。しかし同時に、解くことができないと状況主義者によって示された訳でもない。
  • 6:状況にはリスクがあるから状況を査定せよという状況主義者の薦めは徳理論でも十分裏書きされる。そうしたリスクを見分け適切に重みづけすることは最も重要な徳の一つだろう。
  • 7:<徳を教え込むことが重要である>ことを懐疑する理由は、これまでのところ、<運転能力を教え込むことが重要である>ことを懐疑する理由と同じ程度にしかない。(つまりない)