えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

19世紀後半ドイツ哲学のアジェンダ・セッターとしてのショーペンハウアー Beiser (2016)

Weltschmerz: Pessimism in German Philosophy, 1860-1900

Weltschmerz: Pessimism in German Philosophy, 1860-1900

  • Beiser, F. (2016). Weltschmerz: Pessimism in German Philosophy, 1860–1900. Oxford: Oxford University Press.
    • Introduction: The problem of Pessimism ←いまここ
    • 1. The Schopenhauer's legacy ←いまここ

序論;ペシミズムの問題

 1860年から世紀末にかけて、ドイツのあらゆる社会階層を、厭世的なムード(”Weltschmerz”)が襲った。この現象の原因は謎に満ちている。当時のドイツはドイツ統一や産業的発展をなしとげた幸福な時代だったと言える。1874年から1895年の間には不況があったが、しかしドイツのペシミズムは既に60年代には始まっていた。また、産業化はさまざまな「社会問題」を生み出していたが、こうした問題に対する悲観主義者も楽観主義者も共にペシミストでありえた。
 19世紀ドイツのペシミズムには哲学的な背景がある。この現象は「悪の問題」の再発見から生まれたのだ。古代ギリシアより哲学者達は、世界がつらい場所であるなぜか、そしてつらい世界における人生は生きるに値するのかを問うてきた。中世では私たちが生きるべき理由は来世での贖いに求められた。だがこの答えは世俗化によって説得力をなくし、古代ギリシアが悩んだ人生の価値の問題が再び頭をもたげてくることになった。この再発見を成し遂げたのはショーペンハウアーであった。

1.ショーペンハウアーの遺産

 ショーペンハウアー哲学は1860年から第一次世界大戦にかけてドイツで大きな影響力を持った。1819年に初版が出版された『意志と表象としての世界』はしばらく反響が無かったが、より一般向けに書かれた1851年の『余録と補遺』の成功や、ショーペンハウアーの信奉者達の努力により、主著の影響力も増していった。
 ショーペンハウアーの影響力の大きさを見るには、同時代における彼の位置を見る必要がある。ショーペンハウアーの哲学が影響力をもったのは、それが「哲学のアイデンティティの危機」に対するよい応答だったからだ。19世紀中頃、自然科学の発達と思弁的観念論の凋落によって、哲学は時代遅れの存在になるのではないかという危機感が高まっていた。この危機に対し、哲学の役割を科学の論理学と位置付ける新カント主義が出てきた。この考えは一時的に成功をおさめたが、しかし伝統的に哲学が扱ってきた実践的問題を軽視していた。これに対し、ショーペンハウアーの哲学はまさに実践的問いに取り組むものであった。彼が(再)提起した問題こそ、私たちは存在しないことを選ぶこともできるのになぜ存在するのか、という人生の価値にかんする問いであった(「存在の謎」(Das Rätsel des Daseins))。
 ショーペンハウアーが「カントの唯一の正当後継者」を自ら任じていたこともあり、新カント主義者達はショーペンハウアーを無視することができなかった。多くの新カント主義者がショーペンハウアーにかんする論文や本を書き、そして1870年頃には、実践的なものを含み込むように哲学を再定義する動きがはっきり見られた。新カント主義者のみならず、デューリングをはじめとする実証主義者もまたショーペンハウアーの影響を大きくうけ、「存在の謎」に取り組んだ。
 このようにショーペンハウアーの影響力はいわゆる「生の哲学者」たちに留まららず、新カント主義者や実証主義者といったライバル達にまで広がるほど深いものであった。ショーペンハウアーの遺産は19世紀後半のドイツにおいて哲学の定義そのものを変えた。哲学は、論理学や認識論というテクニカルな問題に取り組む学から、人生の意味や価値といったより伝統的な問題へも取り組む学へと変貌したのだった。