えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

社会の直線的発展 ボウラー 1989[1995]

進歩の発明―ヴィクトリア時代の歴史意識

進歩の発明―ヴィクトリア時代の歴史意識

ホイッグ史観

 ホイッグ党は貴族の特権を廃し個人の自由を重視した。人はこの方針を正当化するのに、<近代についに獲得された自由>に直接訴えたこともあった。だが別の人は、経済的圧力によって社会は必然的に自由主義的になると論じた。

 この社会発展のモデルは、アダム・スミスやアダム・ファガーソン、ジョン・ミラーら、スコットランドの「哲学的歴史家」によって示されたものだ。またウォルター・スコットも彼らの見解を吸収し、しばしば外来の制度だとされた封建制を自然な社会進化の一段階だと描く『アイヴァンホー』(1820)などの歴史小説を書いた。スコットランドモデルによれば、イギリスの社会的発展は商業経済へ向かうあらゆる国に見いだせるはずの発展の一事例にすぎない。例えばスミスは、イギリスは地理的要因から侵略の可能性が少なく職業軍隊の必要がなかったために中央集権体制が生まれず、自由主義の発展が加速されたとした。

 だが経済が社会発展を突き動かすという見方は、イギリスの政体を何か貴重なもの、秩序と自由を求める国民精神の開花とみる伝統(バーク)から批判され、両者の仲裁が19世紀初頭のホイッグ派の歴史家の課題となった。例えばトマス・バビントン・マコーレーは、文明全般の進歩が経済力によって進むとしつつも、イギリスの政体の貴重さを認めた。この政体は、イギリスの地理的要因により保たれた中世の制限君主制下での臣民の自由の擁護者だからだ。

 ヴィクトリア朝時代には歴史が法則に従うという考えがますます力をまし、社会哲学者はその基本法則の解明を、歴史家はイギリスに有利に働いた事情を解明しようとした。両者の中間を往く好例がヘンリー・バックルだ。彼はミルに従い、人種によって能力が違うという説明図式を拒否し、食物が人間の気質に影響し社会発展のレベルが決まるとした。過去の大帝国は温暖な気候が農業文明への素早い移行を促し成立したが、この両要因は中央集権的統治をも生み出し、それ以降の発展が抑圧された。一方北方(ヨーロッパ)では農業経済の確立こそ遅かったが、一度確立されれば発展を妨げるものは無く、特にイギリスは侵攻の恐れがない点で最も恵まれていた。だがこの説はイギリスの体制尊重より社会発展の必然性を明らかに重視しており、このような傾向はますます強くなっていった。

社会進化論

 ヴィクトリア時代の歴史家は社会発展の一般法則を求めた。そこで問題となったのが、非ヨーロッパ、とくに植民地インドの位置づけである。マコーレーらはインドを低段階とし西洋の価値観を植え付ける教育を選んだが、1857年には「反乱」が生じる。だがこの事実に対し自由主義者は、インド人の精神が文明に不向きだとは言わなかった。文化には固有性・統一性があり簡単に変化しないと考えた。社会の発展は単に経済力の副産物ではなく、複雑な精神・社会的要因が関係する。

 そこで、野蛮状態からヨーロッパ文明に進む一直線的な発展モデルがつくられるようになった。世界の多様な社会は別個の進化の系列をたどるが、それらは同一の発展の物差し上で平行に動く。その物差しで下位にある社会は、上位にある社会がかつて通過した段階にある。こうして、同時代の「原始人」を研究する人類学は、はるか昔の歴史の研究に役立つ。

 考古学の時間的展望は、農耕段階より更に野蛮な状態の存在を示唆した。この段階は乱婚社会だとされたが、この考えは当時の「野蛮人」がヴィクトリア時代人には性的放埒に見えたことにより力を得たのだろう。乱交的狩猟民から文明に至るモデルを提示したモーガンの『未開社会』(1877)は、最下層以外の諸段階の社会が現代でも見られるとしている。知識と信仰の発達に関心を持ったエドワード・タイラーのような人類学者も直線的発展モデルを想定し、異なる文化での類似の習性を文化伝播より平行進化で説明した。この手法は後にフレイザーによって擁護される。彼は、胎児の調査が人体の進化に関して証拠を与えるという反復説に依拠し、野蛮人の調査を人類進化の研究に役立てようとした。

 個人の成長へとの類比はすでにスペンサーに見られた。だがスペンサーは生物や社会の成長は複雑さへ向かうことだと考えたため、ある種のものが別の種の発展の前段階を表すとは考えなかった。しかしスペンサー(そしてジョン・ラボック)は生物的進化論を受け入れることで、祖先そして野蛮人は社会的にのみならず精神的にも劣っていると考えることなった。彼らにとって決定的なのは「人種」である。19世紀後半にはほとんど全ての人類学史が人種を重要な要因と見なすようになる。