- 作者: J.L.マッキー
- 出版社/メーカー: 晢書房
- 発売日: 1990/10
- メディア: 単行本
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第一節 自発的ないし意図的行為
- 倫理学は他の領域における概念と結びついている。しかし、そうした概念自体必ずしも明確なものではない。
- 例:選択・責任と決定論の両立性……3種のあまり区別されない問い
- 意図的行為とそうでないものを一貫して区別できるか
- 我々はどのようにして道徳的責任を割り当てるのか
- 報復や処罰はどのような場合にふさわしいか
- 日常的思考の明確化から形而上学的論争に進むのが望ましい
- アリストテレス:「無知」と「強制」により行為は非意図的になると示唆
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- 無知は確かに一定の記述を不可能にするが、アイヒマンの例のように法を犯す意図が無くても不正だと思われる場合がある
- 強制も、嵐で積み荷を捨てるような「緊急避難」は難しい例
- 船長の行為は意図的だが、その記述は「X」ではなく「YよりむしろX」という複合的なものと考えられる。前者が悪くても後者はそうではない場合がある。選択肢の相対的な悪さが問題である。
- 関連性が薄い選択肢は考慮する必要が無い
- 結局、行動を非意図的にする強制は身体的強制に限られる。
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- 行為の意図性に影響する別の要因として、「技術/統御の不十分さ」がある。
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- 技術的に不十分ゆえに、狙ったのと別の行動をしてしまう場合がある。
- ただし、初学者にはそれが不可避だとわかっている場合には、「間接的に」意図しているとは言える。
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- 意図的行為の中心的な事例は、当の記述の元で直接的に意図され、しかも実行される行動だ。
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- 中心的でない事例も色々あるが、それらも欲求・信念・運動・活動・結果などを含んだ因果的構造として理解できるだろう
- 何かが「間接的な」意図の対象になることも、「行為者が手段としてすらも求めていないが、そのまま受け入れている特徴」を表現する記述の下で意図的になるものだと理解できる。
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- 「意図性」と比べると「自発性」は記述との結びつきが薄い。何らかの意図から帰結しそれを実現するような行為は全て自発的である。
第二節 責任の直線的な規則
- 「行為者は、ちょうど全ての意図的行為にのみ、責任がある」という考え方は尤もらしくみえる。だがなぜ意図的な行為を基礎とすべきなのか。
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- ベンサムらは、「処罰の目的は抑制であり、抑制できるのは意図的行為のみであるから」という答えを与えた。
- しかし、抑止が目的なら、ただ乗りを防止するためにも非意図的な犯行も罰した方がいい場合がある。
- むしろこの規則は、「行動を束縛する特殊なシステム」としての道徳の一部と考える方が尤もらしい。〔道徳は行動を統制するものなので、〕意図的でない行為に道徳的に間違っていると感じるのは意味が無い。
- 法的罰則も、道徳的に悪い行為に適用される場合にのみ無媒介で適切とみなされる。
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- しかし、日常実践も法も直線的規則からは逸脱するように思われる
【意図的でない行為に帰責】
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- 人は予見できなかった過失について自分を責めるし、法でも帰結が重大な場合は罪に問われる場合がある
- しかし、道徳の場合考えの不足を責める方が理にかなっているし、道徳体系全体とも整合的である。また法のほうは明らかに不公正である。
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【意図的行為に帰責しない】
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- 子供や一部の精神疾患患者は意図的行為をおこなうが帰責されない。
- しかし、子供やある種の精神疾患患者は道徳の外部にいるものだし、別の種類の精神疾患は以下のどれかに当てはまる。
- (1)行為のある側面に注意を向けていない/向けられない
- (2)行為時の人格との通時的同一性がない
- (3)欲求が強力で、熟慮で制御できない
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- 以上を考えると、〔一見反例に見えそうなものは十分な意図的行為でないか道徳の領域の外にある事例なので、〕責任の直線的規則は基本的には擁護可能なようだ。
第三節 因果的決定論と人間の行為
- マッキーはかつて決定論のテーゼを次のように分析した。
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- 「全ての出来事にはそれに時間的に先立つ一群の出来事と条件とが存在し、それらが何らかの規則性に従って当の出来事にとって十分なものとなり、質的に連続した仮定によってその出来事へと導く」
- この考えは、問題となる全ての点で似ている先行状況から異なる帰結が出る場合には覆される、経験的なものである。
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【決定論擁護論】
- 一つの考え方として、行為が決定されているかどうかは、欲求が常に先立つ十分な原因を持つか、それとも不規則なものかにかかっていると言える。しかし、欲求の規則的生起について参照できるのは心理学などだが、ここには荒っぽい一般化しかない。
- 別の考え方としては、次のような議論がある。
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- (1)物理的状態は全て因果的に決定されている
- (2)脳の状態は心的状態と相関する
- (3)行為は心的状態によって因果的に決定される。
- しかし尤もらしいのは(2)しかない。(3)は上記の点と同じであり、また(1)には量子レベルの非決定が神経レベルでは統計的に押しつぶされていることが必要である。
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【決定論否定論】
- 人間の行為の決定を批判する人は、「他の行為もできた」という感じあるいは直接的経験に訴える。
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- 「他の行為もできた」を「因果的非決定」とするとこの感じは怪しい。
- 私たちは、いつ行為が欲求から帰結するかを言うことができる。欲求が出発点にならない行動の経験もあるが、それはむしろ自動的・非自発的なものである。私たちが自由を感じるのは、むしろ自分の思考や決定が効果的に働いていることを意識する時なのであり、これは非決定的自由の証拠ではない。
- そこで、非決定的自由の擁護者は、意志による動機づけを理論的に想定するが、事実に合わない理論を立てるべきではない。
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- また信念受容が因果的に決定されているならその信念をシリアスに受け取れないという論があるが、それは不適切な因果関係の場合の話にすぎない。
- なお量子的非決定が神経レベルの非決定に反映していても、不規則性があたえられるだけで非因果的的自由は救われない。
第四節 硬い決定論と柔らかい決定論
- 従って決定論の擁護も批判も決定打を欠く。すると、仮に決定論が正しかった場合に責任や善などの概念とそれが両立するかという問題が残る。
- 1・2節の議論は両立論に与する。しかし両者には幾つかの論点がある。
- 非両立論の問題に、決定論によれば選択は絶対的な意味では開かれておらず原理的に予言可能だというものがある。人は、選択は前もって決定されていないとなぜか考えるので、これは反直観的である。しかしマッキーとしては、このことがなぜ問題なのかよくわからない。
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- 決定論が正しくても私は一つの仕方で何かができるのであり、外的制約がその選択肢に制限したのではない。内的制限、すなわち欲求や性格はあるが、それが「私の」自由を奪うものだと考えるときには、経験的自己と形而上学的自己の対比が前提されていると考えられる。
- この前提は決定論が間違いなら(=リバタリアンには)問題ないが、正しいなら(=固い決定論者には)形而上学的自己は何もしない存在と化し、前提の根拠が無くなる。
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- 従って、固い決定論者が「私は私自身の行為を制御していない」というときには、別のこと−−「心の無意識的部分によって行為が完全に決定されている」−−が言われている。しかしこの主張が真理だと考える理由は何も無い。
- 客観的かつ定言的な道徳的「べき」というカントの概念には、形而上学的自己が付いてまわる。これは〔性格や欲求によって構成される〕経験的自己では理解できないものである。
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- 既に見た客観的「べき」否定の議論に加え、形而上学的自己と自由の問題も、カント的道徳を棄却する理由になるだろう。
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- 非両立論の更なる論拠として、「責任判断とそれに伴う報復の感情は、人間が「究極的責任」をもつことを要求する」というものがある。決定論が正しいなら、究極的責任は因果連鎖を無限に後退してしまう。
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- こうした責任の遡及は、客観的な指示の要求の帰結と考えるのが説得的だ。この要求は常識の一部であり、その限りで非両立論は正しい。
- しかし、客観的指示を否定する根拠がある。これを取り除いた道徳的思考は決定論と両立するが、そこには意図的・非意図的行為の区別とそこにかかっている道徳的意義も残るのだ。
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- なお決定論が真でないなら、正しいのは恐らく部分的な決定論だろうが、この場合でも究極的責任は遡行の途中で偶然と消えてしまう。