Surrounding Free Will: Philosophy, Psychology, Neuroscience
- 作者: Alfred R. Mele
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr
- 発売日: 2014/11/07
- メディア: ハードカバー
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- Mele, A. (ed.) (2014). Surrounding Free Will (Oxford University Press)
- Ch.2 Gopnik, A. & Kushnir, T. The Origin and Development of Our Conception of Free Will
- Ch.7 Mylopoulos, M., and Lau, H. Naturalizing free will
- Ch.15 Clarke, R. Negligent action and Unwitting Omission ←いまここ
【要約】
「無知から何か悪い行為が生じたとき(「過失」)、無知は基本的には免責事由になる。従ってあるひとがその種の行為について非難されるべきなら、無知自体になにか非難されるべき点がある」。この考え方は尤もらしいが、いくつか反例をあげることが出来る。また無知自体が有責だとせずとも、その無知が「その人がその状況にいるならふつうはわからない」という認知的基準を上回るか下回るかに応じて、そこから生じる行為の有責性を定めるという原理をおくことが出来る。この原理は過失に関する多くの有責性直観を救う。
◇ ◇ ◇
- ある職人が、下を確認せずに建築資材を道に投げた。本人はこれが危ない事だという考えがうかばなかったが、実際けが人が出た。ここでは、確認の怠りにより無知が生まれ、それが悪い行為につながっており、行為者はこの行為について非難されるべきである。過失の典型例である。
- だがこの事例は以下のような問題を提起する。
- [1] 無知から生じた悪い行為が非難されるべきものなら、無知自体になにか非難すべき点があるはずだ(さもなければ無知は免責事由になる)。
- 無知自体が非難すべきものなのは、その無知をもたらした行為/不作為xが非難すべきものだからだ。
- [2] 何かが非難すべきものであるためには、その何かの悪さについての気づきが必要である。
- 従って、この場合、行為者は行為/不作為xの時点で、それが悪い無知につながると気づいていなければいけない。
- だがこの気づきがあるなら、行為/不作為から当の無知がもたらされることは(ほとんど)ありえない。
- 従って、過失など(ほとんど)存在しない。
- この論文は、前提[1]を疑問視する。
1 注意しなかった
- 職人は、資材が人にあたる危険性に気がつかなかった。これは、過失の定義的特徴である。また、職人は下を確認することが実際可能だったし、また確認すべきであった。彼は確認を怠ったが、そうできたし、すべきであった。従ってこの不作為(確認の怠り)は悪い。
- だが彼はこの不作為が悪いとは気づかなかった。不作為が非難すべきものであるために、この気づきは必要だろうか?(図1)
2 気づきなしの有責性
- 本人が悪いと気づいていないが悪い不作為は、過失以外の中にもある。
- 妻に帰りに牛乳買ってきてと電話で言われ頼まれた。だが帰宅中論文のことを考え出し、そのまま家に帰っていた(図2)。
- この例は、無知に先立つ非難すべき行為/不作為がないように設定することが出来る。
- 電話を受けた時点では記憶を信用するのは理にかなっている。アラームをかけることも出来たが、このような対応はあまりに強迫的である。物忘れが普段から激しい訳でもない。帰りに論文について考えるはいつものことで、これまで悪い結果はなかった。店に近づいたとき「何か買うものは無いか」と考えなかったが、いつもそう考えているのはおかしいし、今回が例外だと考える理由もなかった。仮に、これらをやらなかったのは悪いとしても、私はその悪さに気づいていなかったのだから、非難されるゆえんは無い。
- にもかかわらず、牛乳を買わなかったのは非難すべきことだと思われる。従って、私たちの有責性帰属に多くの誤りがあるか、どこかに基本的な非難すべき点があるかのどちらかである。
- 牛乳を買わなかったことについて、私はいくつかの観点から自由だった。
- 狂気や発作といった不自由から自由であり、買う能力も機会もあった。
- ここで、私は牛乳を買う計画を忘れていたのだから牛乳を買うことは出来なかったと考えるのは誤りである。意識的にならず行使されなかったが牛乳を買う意図はずっと残っており、これを思い出すことは出来た。
- この種の意図は普段なら気づかれているし、今回特に思い出すのが困難な状況があった訳でもない。今回私が忘れてしまったのは、私の認知と意欲に関する能力と状況に鑑みて私に適用される認知的基準[cognitive standard]を下回る出来事だった。
- ここで、意図的でもなく気づかれてもいない不作為の基本的な有責性について、次のような十分条件を提案したい。
- 道徳的行為者に足る能力をもつ行為者が、意図的でもなく気づいてもいなかった悪い不作為にかんして非難されるべきなのは、その人が不作為にかんして自由であり、かつ、自分の義務への無自覚(および当の不作為)が、その人の認知と意欲に関する能力と状況に鑑みて適用される認知的基準以下のものである場合に限る。(図3)
- この見解は不作為についての多くの日常的判断を許容できる。そしてこの事実は、この提案が正しいことの一つの根拠だ。不作為の有責性が先行する行為/不作為の有責性に求められなければならないのだとしたら、日常的帰属が大規模に間違っているという極端な帰結が生じてしまう。
3 咎められるべき無知
- 上の提案によれば、職人は確認を怠った点で非難されるべきだ。では、広く受け入れられている前提[1]「無知から生じた悪い行為が非難されるべきものなら、無知自体になにか非難すべき点があるはず」を、職人はどう満たしているだろうか。職人の過失は無知から生じた非難すべき行為だ。そしてこの無知は、非難すべき不作為から生み出された。ところが職人は、この不作為が無知を生むことに気づいていない(図4)。
- 従って、[1]に沿って無知に非難すべき点を認めるためには、 [2] を否定して「不作為が悪い無知につながる」という気づきはいらないと言う必要があると思われる。
- 牛乳の例はこの考えを支持する。牛乳を買わないという不作為は、翌朝の牛乳の不在を生じさせた。不作為の時点で私は翌朝牛乳がなくなることに気づかなかった。しかしそれでもこの不在について私は非難されるべきだろう。なぜなら、この結果を予見できなかったこともまた、認知的基準以下のことだったからだ(図5)。
- 従って、結果の有責性を不作為の有責性に求めるに際して、不作為の時点でのその結果に関する気づきはいらないように思える。そしてこの理屈でいくと、職人の無知も非難されるべきものになるだろう。
- だがここで、[1] の条件を再検討してみよう。職人の無知は非難されるべきものなのかもしれないが、全ての過失がこの条件を満たすのだろうか。
- 牛乳の例(図3)において、私は自分が悪い不作為をしていることに無知だった。だがこの無知について、非難されるべき先行する行為/不作為はない。するとこの例は、「非難されるべき過失的不作為はあるが非難されるべき無知はない」という事例になっているのではないか。
- 類似例:ボブはいつも通り2:45に幼稚園の駐車場にきた。ここはバスの邪魔になるので3:00から駐車禁止なのだが、子供を迎えるのに数分以上かかったことはない。だが今回に限り、子供が悪いことをしたと先生が誤って言い張るため、事を解決するのに30分かかった。駐車場に戻ると、バスの運転手に車を動かさなかった点で非難された。
- この不作為について、確かにボブは非難されるべきだろう。しかし、彼は自分が車をおきっぱなしにしている事、そしてその悪さには気づいていなかった。この無知も非難されるべきなのだろうか?
- 彼はタイマーをかける等して時間を守れるようにすべきだったのかもしれないが、これは強迫的である。また、今回はいつもより時間がかかっているのだからやはり手を打つべきだったのかもしれないが、これも自明ではない。手を打たなかったことについて非難される所以が無いとするなら、無知についても非難される所以は無いだろう。
- このような過失的不作為があるなら、対応する過失(行為)もあるだろう。
- 例:私は右タイヤの空気が抜けている事に気づき、今夜は帰りが遅いので明日の朝妻に修理道具を借りようと思った。これはちゃんとメモしてクローゼットに貼っておいた。ところが、翌朝クローゼットをあけたときにこれに気づかず、しかもタイヤに空気が抜けている事も忘れてそのまま走り出してしまった(過失)。その結果、車は途中で動かなくなり、出席するはずだった会議が流れた。
- [1] は魅力的な考え方ではある。しかし、少なくとも以上のような例からこれに嫌疑をかける事は出来ただろう。
4 忘れたのではない場合
- これまで著者が挙げた事例はどれも、一旦はリスクを認識したが忘れた事例であった。そして、危害のリスクへの気づきの有る無しによって無謀と過失が区別される。すると、忘れ事例は無謀の方に入り、ここから過失について学ぶ事は無いと思われるかもしれない。
- Husak (2011) は「無謀」と「過失」の区別はわかりにくいとしつつ、「明らかな過失」を、「理にかなった行為者なら気づくはずのリスクに「全く」気づかない」事例と定めた。これはたしかに忘れ事例とは違う。
- だが、忘れ事例における行為者にどのような信念を帰属させるべきかという問題は重要である。ボブは、自分が2:45に車を止めた事、3:00には駐車禁止になる事、そして先生と20分以上喋っている事、全ての信念を持ちつつ、しかし「車がバスを止めている」と推論するのに失敗したのかもしれない。この場合、〔リスクへの気づきはあったが無意識的だったのではなく、無かったのであるから〕、やはり過失に近い。
- 忘れ事例の多くでは、自分が悪い事をしていると言う信念がなくなる(オカレントであれなんであれ)時間がどこかにある。この種の事例において、行為は非難すべきだが無知は非難すべきではないということがあるなら、これは事例がどうクラス分けされるに拘らず重要な現象では無いだろうか。
5 極端な結論を支持する議論
- 責任のために必要な自由には気づきが必要で、過失の事例はそれを欠いていると言う議論がある(Zimmerman 2001)。
- サムはある店を通りがかった。入っていれば、100,000人目の来客として豪華景品をもらえた。しかしそんな事知らなかったので通り過ぎた。
- ある意味でサムは明らかに景品をもらえたが(標準的制御)が、その機会に気づいていないので別の意味ではもらえなかった(標準的制御+機会の気づき=強い制御)。妻がこの件でサムを非難するのは明らかに不当であり、責任には「強い制御」が必要だとZimmermanは論じた。
- だが、サムを免責できるより弱い原理がある。サムの無知は認知的基準以下のものでは全くない。このような無知から生じた行為を免責するような弱い原理によって、サムの事例は十分説明できる。
- また仮に、サムは朝刊で100,000人まで後一人となったら店頭に合図が出ることを読んでいたのに、実際通りかかったときにはそのことを忘れていたとしよう。ここでは、妻が文句を言うのもわかる。だが二つの事例の違いをZimmermanの説では説明できない。
- Rosen (2003) は、むしろ完全に正しいと思って誤った事をするという事例をとりあげた。これは過失と部分的に重なる。そしてこの事例について、「この信念自体に責めるべきところが無いなら行為の方を責めるのはフェアではない」と論じた。なぜなら……
- (1)自分がある行為をする権利があると責めるべきところなく信じている人がその行為をしないこと期待するのは、理にかなっていない。
- そして、(2)別様に行為できたと期待することが理にかなっていないのにその人に賞罰を与えるのは理にかなっていない。
- 「誰かが何かをすると期待するのが理にかなっている」は、「その人はその行為をしそう」(認識的意味)とも読めるし、「その人はその行為を求める規範に服している」(規範的意味)とも読める。
- (1)を認識的に読むとこれは確かに正しい。だがそれは、規範読みされた(2)とはほとんど関係ない。人がすごくやりそうな事について、それをやったら非難されるべきだと言っても、アンフェアではない。
- (1)を規範読みすると、「自分がある行為をする権利があると責めるべきところなく信じている人は、その行為を禁じる規範に服さない」と読める。これは明らかにおかしい。「服する」を強く読んで「自分がある行為をする権利があると責めるべきところなく信じている人は、その行為を禁じる規範に抵触したとしても、非難されるべきではない」と読んでもいいが、これは元の主張そのものになってしまう。
- またLevy (2011) は、人に何かせよ要求することが理にかなっているのは、〔その要求の根拠となる理由が、その人自身の信念と欲求にかかわるものである場合に限る〕と論じた。〔本人が気づいたり信じたり欲していない理由で行為/不作為を非難するのは不当になる〕。
- だが、当人が考えてもいなかった何かを明示的に要求することは理にかなっていない訳ではない。なぜなら、そのことによって当人の信念や欲求が変化し、〔理由が正当なものになることがあるからだ〕。
- なお、Rosenが出す具体例も、先の弱い原理で説明がつく。
- 古代、奴隷制は当然のこととされていた。王様は人を売買し強制労働させた。これはもちろん悪い。
- 王は自分がやっている事が悪くないと責めるべきところなく信じているため、奴隷売買はたしかに悪いがこれについて王は非難されるべきでない、とRosenは言っている。
- 信念に責めるべきところが無いという点には同意できる。そして、この信念は王にとっての認識的基準を満たしている。従って弱い原理により、王の行為は責められるべきではないのだ。