えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

抽象/具体パラドックスと規範違反の認知 Mandelbaum & Ripley (2012)

http://people.fas.harvard.edu/~mandelbaum/NBAR%20published%20Authors%20copy.pdf

  • Mandelbaum, E. & Ripley, D. (2012) Explaining the Abstract/Concrete Paradoxes in Moral Psychology, *Review of Philosophy and Psychology* 3 (3) pp. 351-68

アブスト

 行為の状況を具体的に描写された場合、抽象的に描写された場合よりも、何らかの理由によって、行為者に対してより責任帰属がなされる。この論文ではこの現象の例を提示し、いくつかの説明の試みをサーベイする。こうした試みは、情緒説と認知説の二つにクラス分けされる。両クラスを批判したのち、我々は新しい仮説を提示する。<規範が破られた場合はいつでも、誰かにその責任がある>と人は信じている、という仮説である。この信念は、認知的不協和のよく知られた働きと一緒になって、全ての抽象/具体パラドックスを説明するだけでなく、さらに一見無関係な効果と思われるもの、例えば、<うまく機能しない無生物対象の擬人化>をも説明することができる。

1 抽象/具体パラドックス

・抽象/具体パラッドクス:互いに極めて異なる反応を生み出すような、「具体性」に重要な差がある2シナリオのペア(Sinnott-Armstrong (2008))
・何故「パラドックス」なのか:人々の判断の不整合性を明らかにするから(例:<特定の種の行為>に対してと<その種の個別の行為>に対してで帰責が変化)

1.1 Nichols and Knobe 〔2007〕

・決定論的宇宙
抽象条件:人が完全な道徳的責任を負うことは可能か
具体条件:秘書と一緒になるために妻と息子を殺した人物がいる。この人が完全な道徳的責任を負うことは可能か
→帰責:具体>抽象

1.2 Nichols and Roskies 〔2008〕

抽象条件:ある別の世界は決定論的宇宙です
具体条件:この世界は決定論的宇宙です
・その世界の中にいる人は自分の行為にどのくらい責任を負うか
→帰責:具体>抽象

1.3 Small and Loewenstein 〔2005〕

・ゲームが行われ、他の人を信用した人対し、ランダムで選ばれた裏切り者を罰する機会が与えられる
抽象条件:ランダム選択は罰するか否かの決定の後に行われる
具体条件:決定する前にすでにランダム選択が行われている
(被験者は選ばれた人物を番号でだけ特定できる)
→罰の残酷さ:具体>抽象

1.4 De Brigard, Mandelbaum, and Ripley 〔2009〕

抽象条件:デニスはある神経的条件にあり、それが特定の行動を引き起こしたことがわかった。その条件下ではほかの人も同じことをするだろう
具体条件:デニスはある神経的条件にあり、それが強姦を引き起こしたことがわかった。その条件下ではほかの人も同じことをするだろう
帰責:具体>抽象

1.5 Nahmias, Coates, and Kvaran 〔2007〕

・決定論的世界エルタの住人の様々な行動が査定される。
抽象条件:エルタ人は自分の決定に道徳的責任があると考えられるべきだと思いますか?
具体+善い条件:エルタ人スミットは、地域の孤児院に多額の寄付をしました。スミットは寄付するという決定に道徳的責任があると考えられるべきだと思いますか?
具体+悪い条件:エルタ人スミットは、愛人と結婚できるように妻を殺しました。スミットは妻を殺すという決定に道徳的責任があると考えられるべきだと思いますか?
帰責:具体+悪い>具体+善い>抽象 (※具体+善い条件と抽象条件の間に有意差はなかったがこれはサンプル数の問題だとNahmiasらは考える)

2 感情説

関係する感情の種類などに関して様々な変種があるが、ひとくくりに扱う

感情説のロジック

・「強姦する」などの語が「特定の行動」などの語より強い感情を生み出すというのは尤もらしい
・また強い情動はより強い帰責につながることが分かっている(しかも、情動を喚起したものと事例は何の関係ない場合ですらそうなる)
→具体的事例で帰責が増えるのは(少なくとも部分的には)情動の要因による

難点

・Sinnot-Armstrongが言うように、認知的な要因が(単独で/感情要因に加えて/感情要因と相互作用して)いる可能性がある
▲さらにCova et al. (2012)は、純粋な感情説に対して不利な証拠をあげた。
・行動型FTD(前頭側頭型認知症)患者は、普通感情的反応が惹起される場面で感情を欠くという特徴がある。
・しかし、こうした患者に Nichols and Knobeのシナリオで調査を行ってみると、結果は通常の被験者と変わらなかった

→筆者らは抽象/具体効果を部分として説明するより広範な情動・認知ハイブリッド仮説が正しいと考える。そのためにまずは純粋に認知的な説を検討する。

3 認知説

・おそらく詳細に展開された唯一の認知説であるSinnot-Armstrong (2008b)を検討する。

SAの「独立能力仮説」

SAは意味記憶とエピソード記憶という二種類の記憶があるという仮説にインスパイアされ、次の2つの独立の認知システムを措定した。
 ・情報を文のような命題的な形で処理する<意味システム>:抽象条件で働く
 ・情報を現象学的エピソードとして処理する<エピソードシステム>:具体条件で働く
・「もし行為が決定されている場合、行為者はその行為に対して責任はない」(規則R)は便利な規則であり、意味システムによって作動させられるとSAは措定する。
・しかし規則がうまくあてはまらあに状況もあるので、規則がヒューリスティックにより覆されることも普通にある。パラドキシカルな判断が生じるのは、抽象的〔に処理される〕状況と具体的〔に処理される〕状況とが混ざっている〔ペアが提示された〕場合である。
・情報が意味システムで処理されるかエピソードシステムで処理されるかは、刺激の情動にかかわる性質とは関係ないので、この説は認知説である。

難点

▲単に刺激の具体性だけが判断の差を生んでいるとは思えない。例えばこのままの説だと、「Xは殺人者だ」という抽象的な記述と詳細な日常的行為の記述を被験者に与えた時、具体性ゆえに後者に多く帰責がなされるということになってしまう。(責任判断は状況の具体性より規範違反と結びついていると著者らは考える)
▲独立能力仮説では刺激と刺激の表象との間にギャップがある。具体的な刺激が具体的に処理され、抽象的な刺激が抽象的に処理されるという対応がなぜ成り立つのかさらなる説明が必要である。
▲対応が成り立つとしてもまだこの理論は不十分。抽象/具体的に処理された情報が何故低い/高い帰責につながるのかをさらに説明しなければならない。
 ここで、処理と帰責判断の関係の可能性を2つ思弁することが出来る
・可能性1:具体的刺激とともにあらわれる強い情動によって帰責判断が強くなる →これでは感情説になってしまう。そこで、次の可能性をとるべき
・可能性2:刺激(表象)の抽象性に対応する、信念状態の違いがある(「信念ベース説」)

→しかし後に見るように、信念ベース説を展開するのに2種の認知システムに訴える必要はない。SAの説は不要である。

4 NBAR

筆者らの仮説

筆者らの仮説:<規範が破られた場合はいつでも、その規範違反の責任は行為者にある>という無意識的な信念を人は持っている
・この信念を=NBAR(Norm Broken, Agent Responsible)と呼ぶ
・<悪い出来事>は規範が破られている状況であり、NBARによればそのような状況で人は、その悪い出来事の責任が何らかの行為者にあると結論する
・「規範」は広い意味で解される:世界のあるべき(「べき」の最も広い意味で)ありかたに関する信念が<規範>
・悪い出来事が起こるが、特に責任のある行為者がいない場合はいくらでもある(例:風で木が折れて息子に当たった)。こうした状況ではNBARは脅かされることになる。
ところで、認知的不協和の理論によると、信念が脅かされた場合、否定的な動機が生じ、(A)その信念を放棄するか(B)実は脅かされていない様にみえる道を探すことで、脅威を取り除こうという衝動があらわれる。ここには認知が感情を導く面(対立する信念獲得による動機の発生)と、感情が認知を導く面(動機による信念変化)の両方がある。
・そうすると、上の例で人は次のような反応をしうると思われる。
(1)それはそもそも悪い出来事ではなかったと考える →ありそうにない
(2)NBARを放棄する →BARはよく根づいている(と仮定している)ので放棄するのは難しい
(‐)今回は例外だとする 
(3)実は誰かに責任があったのだと考える(誰か見つけられればこの戦略も可能になる)

抽象具体パラドックスへの適用

・多くの場合、抽象条件ではなく具体条件が規範の違反を含んでいる。
・そして具体条件では規範違反の知覚とNBARにより帰責が強められ、他方の抽象条件には規範違反がないので帰責は弱くなる。
→規範違反の知覚がこの現象を説明する。実は抽象・具体は関係ない。

【例1 Nichols and Knobe 〔2007〕】
・人はデフォルトでは非両立論的直観をもつので、抽象条件では帰責しない。
・具体条件では、決定による責任ないよ判断と規範違反〔+NBAR〕による責任あるよ判断とが不協和を起こす。しかしNBARの方が、めったに使われない非両立的直観より強く根づいているので、直観の方が投げ捨てられてやっぱり帰責される。

【例4 De Brigard, Mandelbaum, and Ripley 〔2009〕】
・人はデフォルトでは精神的に病んでいる行為者には責任がないと考えているので、抽象条件では帰責しない。
(以下同じ)

【例5 Nahmias, Coates, and Kvaran 〔2007〕】
・具体+悪い>抽象 ←例1と同じ説明
・具体+善い>抽象 ←孤児院に多額の寄付をすることは規範に反している(もち「道徳的」規範には反していないが、出来事の通常のありかたを逸脱している)ので、NBARによってより帰責される。
・具体+悪い>具体+善い ←悪い条件は道徳規範にも違反しているのでより帰責される

【例3 Small and Loewenstein 〔2005〕】
・SmallとLoewensteinは、抽象条件では裏切り者全体のサリエンスが高いが、具体条件では(既にランダム選択が終わっているので)全体へのサリエンスは減り、特定の個人に焦点を当てることが出来るようになるので非対称性が生じると考えた。
・これは(部分的に)NBARと適合する。〔損をしたのでNBARにより誰かに帰責させようという圧力がかかるが〕、全体へのサリエンスは<誰か特定の人が規範を破ったという印象>を削減し、圧力を削減すると考えられる。また、行われるゲームは被験者に不慣れで、何が規範違反なのかよく分らないと思われるので、全体へのサリエンスは<裏切りはが規範違反であるという印象>を削減するかもしれない。
・ただし、SmallとLoewensteinは<個人の特定可能性>を強調したが著者らはそうではないので、裏切り者が一人だけ特定可能でかつ全体のサリエンスも高い場合の予言が異なる。SLでは(特定可能なので)具体条件、著者らは全体のサリエンスの高さから抽象条件に近い帰責がされると予言される。

【例2 Nichols and Roskies 〔2008〕
・この例を説明するには、被験者は<NBARがこの世界で有効である>ということを、<NBARが他の世界でも有効である>ということよりも強く確信していると考えなくてはならない。
・いま例えば、<ペンは投げられると下に落ちる>という一般原則の信念を考える。この信念の確信度合と、<他の宇宙で、ペンは投げられると下に落ちる>ということへの確信度合を比べると、確かに後者が劣っているように思われる。我々は他の宇宙で事物がどうなっているかは、この世界のことと比べて確信が持てないのである。
・従ってNBARのような一般原理の信念もこの世界では十分に働くが他の世界に関しては十分に働かないと思われ、判断の非対称性が説明できる。

その他の論点

・Cova et al. (2012)も何の障害にもならない
・NBAR仮説は感情説・認知説よりも説明力が大きい。例えば人は、うまく機能しない無生物対象を擬人化する傾向があることが知られている。NBARによれば悪いことが起きた時には行為者に帰責したいので、我々はモノがうまく動かない時にも帰責できる行為者を探し求めてしまう。そして見つからない場合には、そのモノを行為者として扱ってしまうのである。
・NBAR仮説は副作用効果をも説明できる

まとめと予言

・NBAR仮説は抽象/具体パラドックスと、行為者に似ていない対象の<行為者化>という、一見別個の現象を統一的に説明することを可能にする。

・また、NBAR仮説は次のような予言を行う
○NBARは無意識的なものなので、<特に責任のある行為者がいなくても規範は破られる>と強く主張する人にも当てはまる。このような人に、行為者なしの規範を違反を示した後に語彙判断課題をあたえてれば、「神」〔などの行為者をあらわす単語を〕より早く単語であると判断することが出来るだろう。あるいは、行為者かどうか微妙なネズミ〔!?〕などについて、よりそれが行為者であるというようになるだろう。
○NBAR仮説は、人は具体事例よりも抽象事例に反応する方が速くなるはずだというかなり特定的で反直観的な予言を出す。なぜなら、抽象事例では不協和を解く処理に時間を取らなくてよいからである。一方で分離能力仮説ではこのような予言は出てこない。むしろ、抽象刺激は具体刺激より処理が難しいと思われるので、予言は逆になると思われる。
○規範が破られた(破られていない)場合にどういうタイプのデータが出てくるかを予言できる。例えば、善い行為をする人は、中立的な行為をした人よりも責任があると被験者は考えるはず(Nahmiasの研究がこの正しさを示唆している)

5 Sinnot-Armstrongの認識論に関する抽象/具体調査

 Sinnot-Armstrong(2008a)は、責任ではなく知識にかかわる次のような抽象/具体調査を行った
・「人はよい理由なしに物事を信じていることがあります。〔……〕」
抽象条件:質問「ある主張を信じる良い理由を与えられない場合、その人がその主張が正しいことを「知っている」ということがありうるでしょうか?」
具体条件:質問「あなたが自分の母親だと信じている人物が本当に自分の母親だと信じる良い理由をあなたが与えられない場合、あなたがその人が自分の母親であると「知っている」ということがありうるでしょうか?」
はいと答えた人:具体>>抽象

・S-Aはこれが感情説で説明できない例だと主張した。NBAR仮説は純粋に感情的なものではないが、同じ根拠でNBAR仮説への批判が来ると想定できる。
・しかしこの事例はその主張に対する良い証拠にはなっていないと思われる。
(1)二つの事例は具体性だけでなく視点が違う。一人称視点によるシナリオへの没頭が、感情を強く喚起すると考えるのは理にかなっている。
(2)具体事例ではただ単に自分の認識的身分が問われているだけではない。<自分の母親が自分の母親だと知っているか>というのはかなり負荷の強い問いであり、考えただけでも感情が喚起されそうである。
・人称代名詞をそろえて、問いを感情的負荷のないものに変えれば、非対称性は消滅すると思われる。

6 結論

〔省略〕