えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

外在的な究極的価値としての道具的価値 Rønnow-Rasmussen (2002)

http://link.springer.com/article/10.1023%2FA%3A1014422001048

  • Rønnow-Rasmussen, T. (2002) Instrumental Values: Strong and Weak. Ethical Theory and Moral Practice, 5(1):23−43.

 これはいろいろな論点があって勉強になる論文でした。
 究極的価値には事物の内在的性質に基礎付けられるもの(=内在的価値)しかなくて、「道具的価値をもつ」と言われる事物は内在的価値を導くだけでそれ自体として究極的価値を持つわけではない(=「弱い道具的価値」)というのが割とスタンダードな見解です。しかしブランド品のようなものは、もちろん道具ではあるのですがそれ自体で価値があるように思え、上の二分法にうまく収まらない感じがします。この論文ではこの種の価値を、「道具であるという条件のもとで、事物がそれ自体として持つ価値」だとします。つまり、道具性という関係的性質(およびその他の様々な性質)に基礎付けられた「外在的な究極的価値」(=「強い道具的価値」)が存在すると主張しています。

    ◇    ◇    ◇

1 序

〔省略〕

2 強い意味の評価と弱い意味の評価
  • 「xに道具的価値がある」という時、xは価値の担い手なのだろうか。それとも、xは単に価値あるものと何らかの形で関係しているだけで、それ自体は価値の担い手ではないのだろうか。
    • 「xが道具的価値を持つ」は2通りの意味で使われている
  • 強い意味(S):xは(特定の)価値の担い手であり、xがその価値を担っているのはそれが究極的価値(をもつ何かの現実存在)を導く場合に限る
  • 弱い意味(W):xは究極的価値(をもつ何かの現実存在)を導く
  • しかし、究極的価値のある何かにつながるようなものは、まさにある種の価値の担い手にふさわしいものなのではないだろうか? 〔なので、この2つに実質的な違いはないのでは?〕
    • この主張は、「「価値がある」には「価値を導く」が含まれる」という考えに基づいている。だがこれは明らかに誤りである。
      • →「価値と「よって」を連合させる誤り」 [value-by association mistake]
  • 弱い意味で対象に道具的価値を帰するW判断も価値判断である。しかしこれは、この判断がxに価値を帰するから価値判断なのではない。究極的価値に言及しているので価値判断なのである。
  • 「道具的価値」の弱い意味での使用には異存はないだろう。だが強い意味はどうか。この問いは、強い意味での道具的価値をもつものを見つけられるかどうか、に大きくかかっている。
3 コースガードのミンクのコート
  • コースガードは、ミンクのコートは「その道具性という条件のもとで、それ自身価値がある」と述べた(1996. p.264)。これは、強い道具的価値の担い手の候補である。
    • ここで彼女は、ミンクのコートの〔究極的〕価値がその道具性にスーパーヴィーンしていると述べていると考えられる。
4 標準的応答
  • とするとこのコートが究極的価値を持つのは、何らかの関係的性質の故にだということになる(例えば、所有者を暖かくするとか)。
    • だが、「外在的な究極的価値」という考えはあまりポピュラーではない
      • 例えばムーアは、対象がその内在的性質故にもつ価値、すなわち「内在的価値」とは別に、道具的価値があるとは考えなかった。彼によれば、何かが「手段としてよい」という判断は、「その事物は一定の結果をもたらし、そしてその結果は内在的によい」という因果関係に関する判断なのである(≒W判断)。
  • だがRønnow-Rasmussen & Rabinowicz (1999) は、究極的価値には内在的なものと外在的なものの二種類があると論じた。ある究極的価値が内在的か外在的かは、その価値がSVする価値付与性質の本性による。
    • 価値付与性質が「内在的に関係的」な時(すなわち、ある対象がその「部分」との関係ゆえに究極的価値を持つ時)、および、内在的な時、究極的価値は内在的である。
    • 価値付与性質が「外在的に関係的」な時、究極的価値は外在的である。
  • ミンクのコートの価値について、ムーアなら、それは道具的価値を持つとともに内在的価値をも持つと言うだろう。しかしこの分析は、コースガードが言いたいことのポイントを外している。
5 道具性は関係的性質なのか?
  • ある対象xが「役に立つ」という時、xは「実際に」用いられて究極的価値を持つyに寄与している場合もある(「現実的用法」)。しかし、その対象が「もし」用いられれば究極的価値を持つ何かに寄与する「だろう」ということが言われている場合もある(「事前の用法」)。
    • 「事前の用法」においてxとyの間には現実的関係がない。ここから、この場合の道具性は外在的に関係的な性質ではないと言われるかもしれない。
  • しかし、xが道具的価値を持つために、yと「直接的」関係に立つ必要は無い。たとえば、私が〔特定の〕ミンクのコートをきて尊敬を集めようと計画している場合、〔この〕ミンクのコートは明らかに〔私と〕関係をもっている〔し、道具的価値を持っている〕。
    • 「究極的価値を持つものを実際にもたらさないなら道具とは言えない」という考え方もありうる。だがそれだと、「究極的価値の達成を「補助する」」対象には不当にも道具的価値がないことになる。
  • ところで、意図的に使われた訳ではないがたまたま究極的価値に導いたものも、道具的価値をもつと言えるのではないか?
    • 例:脅迫者を止めようと意図して石を投げたが、石は外れたまたまレンガに当たった。レンガは落下してその人に当たった。
      • ここでは通常の用法を尊重し、「道具的価値」は石のように意図的に使える具体的な対象にのみ使う。ある究極的価値のために使われるのではないがそれに導くレンガのような対象には、「補助的価値」を使う。
6 強い道具的価値の別の例
  • 「象徴的な」本性を持つ強い道具的価値もある
    • 例:脅迫者を止めようと石を投げる際、2つ石のうちのこれまで脅迫者を止めてきた石xを使った。他に関連する違いがないとしても、石xはそれが脅迫者を止められる〔という条件のもとで〕、(過去との)関係的性質をもつことによりそれ自身で価値があると言える。
  • 石xが脅迫者を止められないなら、強い道具的価値は失われる(象徴的価値は残るかも)。石xが強い道具的価値の担い手となるのは、あくまで弱い道具的価値と象徴的価値が組み合わさった時にかぎる。
    • 従って、ここで石の究極的価値と言われているものは弱い道具的価値に過ぎないという反論は説得的でない。また石xが「道具的価値と内在的価値両方を持つ」というムーア的反論も説得的ではない。石xに内在的価値はどう考えてもないからだ。
  • 石xに〔強い道具的〕価値を付与している性質は、複数の性質の複合体だと考えられるが、そこには上記の〔弱い道具性や象徴性といった〕性質に加え、行為者の計画の対象であるという性質も含まれるだろう。
    • 人は「石がよい」がゆえにそれを使おうとするのではない。「もし使われれば価値があるだろう」という信念によって、使うと決定するのだ。
  • この例から、ミンクのコートの例をより明確にできる。コートの道具性〔のみ〕によって、コートに究極的価値が付与されているのではない。道具性はひとつの必要な前提条件であり、「豪華である」などの他の性質がなければ、ミンクのコートは強い道具的価値の担い手にはなれない。
    • 「あるものの価値の条件となるものはそれ自身価値を持つ」と言いたくなるかもしれないが、これは考えたくなるかもしれない。だがこれも「価値と「よって」を連合させる誤り」 である。
7 「価値の担い手」分析への多元主義的アプローチ
  • 事物の価値を事実の価値へ消去的に還元する試みがなされてきた。これに対しR & R (1999) は、事実だけが価値の担い手であることはないと論じた。
    • たとえば、ダイアナのドレスは外在的究極的価値を持つと思われるが、還元主義者は真に価値を担うのは「ダイアナのドレスが存在するという事実」だという。しかし、これは話を逆さまにしている。そのドレスが存在することに価値があるのは、そのドレスに価値があるからだ。
  • だが次のような説は検討していなかった。
    • 石xの外在的究極的価値は、「行為者による、一定の前歴をもった石の、ある特定の究極的に価値のある目的のための、使用」というトロープに還元される。
    • この説が正しい場合、具体的な道具が価値の担い手になることが不可能になるので、本論文の見解とは相容れない。
  • 以下では、強い道具的価値をトロープの価値へ還元できるか検討しよう。
8 抽象的個別者、具体的個別者
  • これまで強い道具的価値の担い手は「具体的な」「個物」だとしてきた。個物なのはいいとして、トロープは具体者なのか? 具体者と抽象者の区別として、Zimmerman (2001) は2つの仮定をおいた。

(1)抽象者は必然的に存在する

  • 性質が必然的に存在するというのは、性質の例化と対比されて言われる。トロープは例化されるものではなく、必然的に存在するものではない。

(2)具体者は空間・時間的位置を持てる

  • 少なくとも一部のトロープは、空間・時間的位置を持つと思われる。「私の髪の色」は時空的位置を持つが、「私の痛み」は難しい。
  • Williams (1953) はこれと別の区別を提出しているが、これは抽象・具体の区別をよく捉えていると思われる。つまり、一体としての飴は「具体的」だが、その色や形、匂いといった部分は「抽象的」である。この意味ではトロープは明らかに抽象者である。
9 事物の価値をトロープの価値へ還元しない
  • ではトローブは道具的価値を担えるのか。金槌の道具的価値は、堅さや鉄性といったトロープのもつ価値ではなく、金槌という具体者の価値である。抽象者としてのトロープは、〔使えないので〕、道具的価値を持てない。
    • もしかすると、金槌とはトロープの束に他ならないのかもしれない。そうだとしても、道具的価値を持つのは金槌〔という特定のトロープの束全体〕であり、そのトロープの束のうち一部もしくは全てのトロープではないだろう。
  • また、「価値がある」とは、「意欲的態度や情動などの適切な対象である」ことなのだとすれば、事物価値が適切な対象となる応答とトロープ価値のそれとの間に一般的な乖離があることがわかる。
    • 人は賞賛・尊敬できるが、トロープを賞賛するのはナンセンス。
  • これが正しければ、還元に反対する更なる理由になる。
10 派生的な強い道具的価値と非派生的な強い道具的価値
  • 以上の説が正しいなら、次のような主張は再考されなければならない。

(1)究極的価値判断より、道具的価値判断の方が圧倒的にたくさんある

  • 強い道具的価値判断は、弱い道具的価値判断よりはまれであるものの、(道具的でない)究極的価値判断よりはよくあるものではないか。

(2)道具的価値より究極的価値の方が実践的に重要である

  • 強い道具的価値は究極的価値なので、端的に誤りである。これまでの哲学理論は、人々が道具的価値をもつものをあそこまで重要視するのはなぜなのか、説明できていなかった。
  • 強い道具的価値はその他の究極的価値と肩を並べるようなものではないと思われるかもしれない。強い道具的価値は「派生的」価値にみえるからだ。しかし派生的価値の理論はまだ荒削りであり、全ての道具的価値が派生的なものかどうかは不明である。