Lack of Character: Personality and Moral Behavior
- 作者: John M. Doris
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
- 発売日: 2005/03/07
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- Doris, J. (2002) *Lack of Character: Personality and Moral Behavior* (Cambridge University Press)
- 1 Joining the Hunt
- 2 Chacarcter and Consistency
- 7 Situation and Responsibility ←いまここ
責任と反応的態度
・直観的に、人は<自分の性格が表出されている行為>により密接な関係を持つ。人は自分の「性格と傾向」から発した行為にのみ責任を持つとヒュームは述べたが、上の直観がこうした見解につながるなら、状況主義は責任帰属を台無しにしてしまう。
・<罰すると良い行動をするようになる場合には罰する>という責任帰属の帰結主義をとれば、性格の評価は要らないので問題ない。しかし<穏健な>改定主義者たるドリスは、<責任の問題は「反応的態度」の適切さに関わる>というより豊かな描像を保持したい。
・課題:反応的態度のための心理的に豊かな基盤を提出できるような形で責任を説明する
・構成:責任をめぐる話題のうち状況主義にとって仮象の問題を考察 →真の問題の考察
責任と深い評価
・責任評価は「深さ」をもつ:行為の向こうの心理状態をも考慮する。<非性格的な責任の説明>が<非心理的な責任の説明>である必要はないので、性格の懐疑論者も深い責任評価をすることができる。
◇細かく見ると……
・人に責任があるためには、まずは<因果的責任>さらに心理状態の特定が必要。さらに、弁解条件・免除条件 下にある行為者の責任は撤回される場合がある。
・しかし以上のような考察のどれも性格と明示的には関係ない。また、日常的な責任に関する語りも、賞賛/非難されるべき自発的行為は<知っていて強制なし振る舞われる行為>だというアリストテレスの見解も、性格には明示的にはコミットしていない。
・では暗黙には関係するか? 自然に考えると、やはり日常的な責任帰属と性格との関係は限定的だと思われる。そしてそのことは、責任と性格を結びつけると問題が生じる例(下劣な人が高貴な行動をする;その逆)があるので、哲学的に美点である。
・善良な人が珍しく悪いことをした時、弁解・免除条件の有効性を考慮するのに性格への参照が必要かもしれない。しかしこの場合の性格は、グローバルな傾向性ではなく、<これまでどれだけ良いことをしたかのまとめ>として参照されているに過ぎない。
両立主義と非両立主義
・決定論と責任帰属に関する他行為可能性説の両方をとると、責任のある人間はいなくなるようにみえる。勿論この問題そのものは状況主義者に固有のものではないが、この問題に対する有力な応答が存在し、そして状況主義のみがそうした応答を困難なものにしてしまうならば、状況主義は問題をはらんだものとなってしまうだろう。
◇応答1 自由主義
・「自由な行為の起源は因果法則から外れている」
・状況主義は<行動は驚くべき仕方で引き起こされる>と主張するのだから、行為は決定されていないと考える自由主義者にとって、状況主義は別に困難ではない。
◇応答2 標準的両立主義
・「行為が決定されていても、その行為が行為者の選択により決定したものなら、行為者は別様に行為できたと言うことが出来る」
・状況主義者は、選択が異なれば行動も異なるということは否定しない。従って標準的両立主義にとっても状況主義は別に困難ではない。
状況と自己制御
・善悪を見分ける「反省能力」と、それに従って振る舞う「自己制御能力」が責任帰属に必要だという見解は尤もらしい(法律上の例も多い)。状況主義はこうした見解にどういう含意をもつか(まず「自己制御能力」を見る)。
・ミルグラム実験などでは、被験者がアクラシアに陥っていたことが伺える。さらにこうした実験によればアクラティックな行為は非常に広く見られる。このことは、「自己制御能力」を人に帰属させることに困難を生じさせないか?
・責任と自己制御の関係については、<極めて強い快や苦に屈した人は許され、多くの人が抵抗できる強さのものに屈した人は許されない>という見解がある。
・ここで重要なのは<ある行動への刺激の強度>と<その行動の頻度>であり、普通は刺激が強いと行為の頻度も増えると思われる(強度と頻度の共変)。
・ところが状況主義的実験の場合、刺激はさほど強くなく被験者の行為は許されないようにみえる一方で、関連する行為は高頻度で生じるので、許されるようにも見える。
【直観1】強度高い(許される) + 頻度高い(許される) → 許される
【直観2】強度低い(許されない)。+ 頻度低い(許されない)。 → 許されない
【実 験】強度低い(許されない) + 頻度高い(許される) → ????
・状況主義によって、強度と頻度が共変しないという問題が生じる。解決策は2つ。
(1):高頻度の行動を生み出す刺激=強い刺激と考える(「数が問題である」)。
→一見良い提案に見えるが、多くの場合人は特別善く行動する訳ではないので、免責が急増してしまうという欠点がある
(2):頻度を免責の基準に使うのをあきらめる(「数は問題ではない」)。
→刺激の強度に関して頻度から独立の基準が必要になる(これ関して一般的なことは言えない。状況による)。一見すると弱い刺激下で大勢が不適当な行動をしている場合、状況の再解釈が必要かもしれないが、〔それを基にした〕価値評価の実践に抜本的な改定が必要な訳ではない。状況主義は目立たない強い刺激を多数示し、再解釈に認識上の困難さがあることを示したが、同時に解決の糸口を与えてもいる。
規範能力
・責任帰属は、帰属対象が「規範能力」を持つことを前提する。「規範能力」は、規範的思考や個別の規範的判断に関係する情報の吟味・発見、実効的な熟慮を可能にしてくれる複合的能力である。わけても重要な<効果的な熟慮>に必要な認知能力に注目。
・熟慮が、主体の規範的なコミットメントと、主体が支持する計画・ポリシー・決定との間の<調和>を確保してくれる時、それは<効果的な熟慮>である。(効果的な熟慮は、主体の持つ価値の「実装」に貢献する。)
・調和が「外的な仕方で」確保された場合は、私が規範能力を行使したとは言いがたい。しかし、外的な調和が信頼可能な方法から確保されている場合は?(例:医者を鵜呑みにする)。場合による。情報を集め注意深く医者を選んだ場合には、この方法は調和と偶然以上の関係を持つ。規範能力の行使は、必要な調和の確保以上のもの含むと言える。
・普通の人は自分の行為に責任を持つ(規範能力の全面的欠如はない)というのが標準見解である。ただし、局所的に規範能力を十分働かせられない状況に陥る事はある。そして状況主義はそうした状況が実はかなり広範に及ぶと示唆する。すると、我々の標準見解は誤りで、責任帰属に関しては一般的に不可知主義をとるほうが賢明なのでは? →これは反応的態度による責任帰属実践を掘り崩すように見える。
・サマリア人の実験では、いまが助けを必要する状況だと見過ごした被験者がいた(規範的能力の「外的に方向づけられた行使」の失敗)。我々は状況が十分錯綜している場合には倫理的な見過ごしを許す傾向があるが、今回は状況要因と見過ごしの間に不釣り合いがある。一見不適切な見過ごしも、状況要因に訴えて免責されることになるだろうか?
・この問題は先ほどと同じように回避できる。<期待していい倫理的気付き>を、その気付きの生起の頻度とは独立に決定できればよい
・真の問題は、規範能力の「内的に方向づけられた行使」にある。Nisbet & Wilson [1977]によると、認知過程を操作する実験の際、操作のために示された刺激が〔実験結果に〕決定的だったと報告した被験者は殆どいない。そして状況主義の示唆では、重要な刺激は突き止めがたく、出来たとしても素朴心理学の下では極めて尤もらしくない。だから、人は自分の認知の動き方について薄い理解しか持っていないのである。この論点は認知過程だけでなく行動に含まれる動機過程にも言える。
・隠れた状況要因の広範さは精確にはわからないが、問題は数ではなく、それらを排除する簡単な方法が無い点。状況主義が正しければ、責任の帰属に際して様々な状況要因を考慮する必要があり、そこで考慮した要因で十分だとも限らない。
・ドリスの主張は「<規範能力の「内的に方向づけられた行使」の失敗>が責任を問題化する」というもの。いま問題となっているのは自分の動機の評価だが、これにはある種の能力が必要であり、その行使は、自分の行動に実践的意義、相互作用に道徳的意義を持つ。従ってこれを規範能力だと言う理由がある。こうした規範能力と責任の関係は次の節で見る。
同化
・ドリスは道徳的責任への「同化論」がイケてると考える。「同化」とは人が動機に対して立つ関係であり、ある動機を同化するとは、それを「完全に自分のもの」とみなすことである。同化された動機からの行動は、単にその人に起こったものではなく、「その人の」行為なのだから、その人は反応的態度を受けるべきだと思われる。
・同化は責任の必要十分条件だとの提案がある。しかし必要条件の主張は絶望的である。同化なし責任ありという反例があると思われるからだ(状況主義がその例を出すように見える)。そこで、ここでは次を示す:(1)同化論者は主要な反例に対処できる;(2)状況主義が挙げる現象は責任に関する我々の考えを台無しにしない。
・ドリスの考える構図:【規範能力】―(必要)→【同化】―(必要)→【責任】
・しかし、状況要因が主体の意識に上らない動機を生じさせるなら、動機を批判的に吟味する規範能力を逃れてしまい、この場合人は責任を負えなくなる。同化は責任に必要ない? ……→この問題は誤解に基づいている。
・【反実仮想】
一見、問題は多くの動機が意識的でないという点にあるように見える(これは状況主義特有の問題ではなく、習慣的行為など意識的な動機の同化がない行為は多い。そして確かにそれらは責任あるものとみなすのが正当だと思われる)。しかし、責任ある行動は規範能力の実際の行使を必要としていない。重要なのは反実仮想であり、もし行為者がその時に動機を批判的に吟味したら同化がされるかどうかが問題なのだ。
・まだ問題がある。自分の無意識的な欲求に気付き、反省のうえそれに敵対的な態度をとったとしても、責任はなくならない場合がある(例:私が、親を喜ばせたいという無意識の欲求から頂点に上り詰めようとし、その過程で私に裏切られた人は、まさに私がこの動機を認めないだろうという理由から、私を許す気にならないだろう)。→同化は責任に必要ない?
・【物語】
ここで、<無意識的な動機には物語的統一を容れる余地がある>と考えることが出来る。無意識の動機は、本人の反実仮想的な同化が無い場合さえ、本人の同化の顕現となっている物語の中に統合されるかもしれない。(セラピーの語りなどの)適切な批判的吟味があれば、この無意識的動機を自分の動機と同化するということがあるだろう。セラピーはしばしば私たちの動機に関して自己理解より精確な描像を与えてくれる。また物語による動機の理解は、責任帰属の場面でも普通に行われている(様々な行動の説明候補を比較するという形で)。
・もちろん物語が役に立たない場合もある。強迫性障害の場合のように、その人にとって典型的な動機ですら本人の同化の顕現にはなっていない場合もある。この場合には責任の存在を疑ってかかるべきであり、「同化論」はそれを適切にも正当化してくれる。ここでのポイントは、同化の拒否だけでは免責されないのはなぜかを理解するのに、物語的統一という考え方が役に立つということである。
・まだ問題がある。状況主義が提示すような一般的な動機は、個人的な動機と比較して物語的統一の中に入りにくいと思われる。しかし、その動機の結果の行為(例:人を助けない)は非難に値するように思える。→同化は責任に必要ない?
・しかし、私が状況主義に親しんでおり、気分の効果についてわかっていたらどうか? 逆に、親を喜ばせたいという欲求にも幾ばくか一般的なところがある。状況によって誘発される動機が、他の動機よりも内在的に同化されにくいという証拠はない。
・しかしこれはでまかせに聞こえる。親に関する欲求が物語的統合を受け容れるのは、何といってもそれが私の人生という物語とうまく噛み合うからである。そして確かに、状況主義的な動機は伝記には容易にかみ合わない。
・【計画】
ここで、ブラットマンの計画概念を導入すると少し前進できる。計画は行為者が現在進行的に持つコミットメントを反映するから、行為者の計画を挙げることは、同化の現れである物語を挙げることでもある。例えば急いでいて人を助けなかった場合、この行為への直接の同化がないとしても、急ぐ原因となった過密な計画を持つことに対しての同化はあるだろう。こうして責任に必要な同化は確保される。
・【来歴】
いま、意志が弱く貞操を破ってしまう人を考え、これは状況要因によって起るとせよ。意志の弱い行為は計画に反して起こるのだから、ここで計画に訴えても意味が無い。しかし、多くの意志の弱い行為は来歴を持つ。先行する出来事には同化、そして責任を位置づけられるものがあるかもしれない。全ての動機は因果的・動機的な先行者を無数に持つから、どれがこの個別事例に関係するかを決定するのには困難があり、さらにそこに責任の根拠となる同化があるのか決定する仕事もある。しかしそれこそ心理学を真剣にとった倫理的反省の仕事なのだから、恐れるべきではない。
・以上の来歴に訴えた説明は、典型的な反応的態度を忠実に反映したものではない。被害者は先立つ出来事ではなく問題の行為自体に怒る。しかしここには倫理的改善の可能性がある。下品な行動よりも、そもそも酔っぱらったこと自体を非難する方がより適切ではないか? 全ての事例に物語を基盤にした責任があるわけではなく(例:意志が弱りっぱなしで、どの動機にも同化できない人)、その場合は責任帰属なしになるが、これは完全にマズい訳でもない。この時、行為は行為者に<起こった>ものに近い(ミルグラム実験に参加させられた被験者に感じる憐みが、この感覚を反映である)。すると、ミルグラム実験のような場合、行為者の責任について見解の衝突が起こるだろうが、責任査定が微に入り細を穿つと決定的でなくなる場合があるというのはやむを得ない。
・ここまでで同化にまつわる困難が消えたとは言えないが、状況主義が責任帰属を甚だしく問題化するわけではないと示せたと思う。それでも、状況主義が規範能力と同化に与える影響はもっと尖鋭なものだと思われるかもしれない。困難な事例や曖昧な気持ちを残さない道徳へのアプローチは根本的に誤りなので、この不安にはあまりおびえなくてもいいのかもしれないが、ここでは最後に積極的な主張をして応じる:「状況主義は効果的な熟慮を促進するので、かえって規範能力を増強させる」。
状況と熟慮
・性格の発達にかかずらってないで状況に注目すべき。ドリスは、性格心理学に基づく限りでの倫理に関する我々の自己理解に改定を要求する。倫理理論の評価の一部は費用対価で決まるので、ここでは状況主義が持つ熟慮における利得を示しておく。
・ミルグラム(1974)は、自分が「被験者」だとしたら最大どの位の電流を与えるかと被験者に訊いた。平均は150Vで上限は300Vだった。他人ならどうするだろうか訊くと、多くて1-2%が450V(最大値)を与えるだろうと答えた。実際は平均が360Vで450V与えた被験者は65%いた。このように人は普通、行動は実際より相当状況に依存しないと思っている。こうした現実と知覚の食い違いにより、人は道徳的に危険な状況に行ってしまい、道徳的失敗の可能性が高まる。
・例:状況主義者なら、貞操を守れず悪いことが起きそうならそもそも夕食にいかない。
・物事を正しく理解するには、状況の決定的な特徴に注意を払うこと(「触らぬ神に祟りなし」)。逆に、望ましい行動を導く状況に近付くべきである。圧力の少ない「クール」な状況(夕食に対する招きの電話の場面)では、人間なら自分の価値に沿って行動出来るだろう。かくして、我々の責務とは、特定の行為をせよという単純な義務ではなく、熟慮の中で状況の決定的特徴に注意を払えという、極度に複雑な「認知的義務」になる。
・状況主義的な洗練がよりクールな決定場面で規則的に発揮されれば、倫理的行動の信頼可能性に格段の影響が出るだろう。既存の実験の知見は似ていない状況に応用できないし、危険な特徴があまりに僅かで突き止められないかもしれないので、この楽観主義には限度がある。しかしドリスの路線は、熟慮という最も効果的な場面に倫理の焦点を絞ることが出来た。状況を反省することで、価値の実装をより確保してくれるような熟慮が生まれる。状況主義に親しめば、これまでは規範能力の行使を掘り崩してしまうかもしれなかった状況要因に、うまく対応することが出来るようになるだろう。
・ここで経験的証拠を出して主張を支持したいが、残念ながら関連する知見は殆どない。ただし、既存研究がドリスの路線をまずくすることもない。Beaman et al (1978)によると、集団効果と向社会的行動に関す15分の講義または短いビデオを見せられた生徒は、対称群と比べて、標準的な危機パラダイム(てんかんの奴)で、傍観者グループに入れられた時でも、より患者に介入することが分かった。有意差が小さいので注意が必要だが、たった15分の講義で援助行動が増えるのはある意味驚きである(実験を行うのが二週間後でもまだ効いてる)。――状況主義には道徳教育について何を言うだろうか?
・〔講義を受けたりして自己を操作する〕この種の「倫理マネージメント」は、来歴による責任の説明にしっくり合う。ここで、なんか自分をペットみたいに扱うみたいでイヤだし、危険な状況こそ人生のスパイスだと思われるかもしれない。しかし、実際のリスクを考えると、「自己操作を熟練させよ」より「断固として意志を行使せよ」と強調する理由は小さいと思われる。危険な状況を排除できる前者の戦略により、かえって動機への同化は増え、我々は豚ではなく責任ある行為者になるのだ。
徳と理想
・状況主義は記述的主張としては正しいかもだが、徳はあくまで理想なのだと言われるかもしれない。では、最も有益な記述的心理学は状況主義だとして、徳の理想はどんな点でその他の倫理的理想(カント的、功利主義的)より優れているのか?
・これは<理想としての徳>の捉え方によるのかもしれない。この捉え方は二つある。
【真似モデル】道徳的な模範の心理と行動を真似せよ!
(例)誘惑に屈しそうな時でも耐えよ ―――――→とても難しい。ダメ
【助言モデル】熟慮するときに、有徳者に助言を求めよ!
(例)誘惑されないよう食事の誘いにのるな ――→有徳者は現在の状況や性向を踏まえて助言してくれるので、実現可能
効果的な熟慮のためには、我々の状況的負荷をよく理解した助言が必要であり、この理解を状況主義は助けるだろう。もし理想的に有徳な助言者が良い行いを確保してくれるなら、この人は状況主義者である。
・<徳のある人の真似>を強調するのが徳倫理学の特徴の一つだと考えるのは尤もらしいので、助言モデルは真に徳理論的ではないと思われるかもしれない。しかし、倫理的に重要な点で、良い行動を導くときのみ、真似は行えばよいのだから、真似モデルと助言モデルは組み合わせることが出来る。この時、今の状況が真似に適しているか否かを決定するには、状況について反省が必要であり、状況主義が超重要な情報源になる。従って性格が重要だと考える場合でさえ、状況主義は倫理的熟慮に価値ある貢献をする。
・そうすると徳の擁護者は、「結局、状況主義は徳理論が包括できる・すべき心理学的事実を教えるだけで、徳倫理を問題化するものでないのでは?」と言うかもしれない。しかしそうだとすると、「性格倫理は、心理的に現実的な(←ドリスが奨める態度)倫理的反省を好むべきだ」と認めたことになり、この点でドリスの勝利である。ドリスの目的はどちらかといえば、性格倫理を「論破する」事よりも、経験的心理学から情報を受けた倫理的反省の道を開くところにあるからだ。
・ しかしドリスは以上のような緩和策には納得しない。仮に今提案されたような仕方で徳理論が補われたとしても、<とりわけ>性格理論を推奨すべきだと主張する議論がまだ必要である。これは徳の擁護者に任せるが、いくつか困難があると思う。
・というのも、徳倫理の魅力の一つは、理論負荷的な道徳的反省がもつ「イヤな感じ」(真正性の減少・阻害の増加)にまつわる困難を逃れられる点にある。しかし徳を理想として理解すると、「理論による仲介」の恐れが生じるので、こうした魅力が減る。徳を理想として理解したとき、〔「義務だから助けた」とか「最大多数が幸福になるから助けた」と同じように「それが理想的な姿だから助けた」といったような<余計な考え>を挟まずに、まさしく〕<人が苦しんでいるのを見て心が痛んだが故に助けたのだ>と言える余地がどのくらいあるだろうか? もちろん、回答は可能かもしれないが、とにかく議論が必要である。
結論
みんなもう状況主義に詳しくなったので、状況にあまり注意しないと責任問題が出てくるかもよ! ゴメンネ! ……しかし、まだ啓蒙されていない知り合いはどうするのか? 社会心理学を知らない人は、状況の危険に鋭い気づきを持たないのだから、その分許されるべきなのだろうか?
そうではない。心理学理論に無知だからと言って、それとは独立な倫理的に重要な事実に無知であることが許されるわけではない。例えばゲノヴェーゼの事件の証人は、自分が助けないことの状況要因(集団効果)には無知だったかもしれないが、助けが必要な状況であることには気が付いていた。
状況主義は責任の終焉を告げるものではない。むしろ、状況の脅威に気付くことによってのみ、われわれは出来るだけ多くの状況で責任ある人として振る舞うことが可能になる。責任は永久的なものでなく、苦心と警戒によって獲得・保持されるのであり、状況主義はそれを助けることができる。