- 作者: 浅野光紀
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2012/07/01
- メディア: 単行本
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- 浅野光紀 [2012] 非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞
目次
第一章 自己欺瞞
第二章 自己欺瞞のドグマ
第三章 自己欺瞞の帰結
第四章 アクラシア
第五章 実践推理の外へ ←いまここ
第六章 アクラシアの自由
デイヴィドソンは次の二つの行為原理を採用していました。
- P1 もし行為者がxを行うことをyを行うことよりも欲し、また彼がxかyのどちらかを自由に行いうると信じているとき、もしかれがxかyのどちらかを意図的に行うのであれば、彼はxを意図的に行うであろう。
- P2 もし行為者がxを行う事をyを行う事よりも良いと判断するならば、彼はxを行うことをyを行うことよりも欲する
デイヴィドソンは「欲求」に関して行為を引き起こす際の因果的な強さを考えています。ここで、P1を否定して、ある行為をしつつ別の行為をなすことをより強く欲しているという考えに実質を与えることは難しいでしょう。P2を放棄することがアクラシアのパラドックスを解決する唯一の方法です。
1 デイヴィドソン
デイヴィドソンはP2から、「あらゆる事情に鑑みて」という但し書きを欠落させました。P2における「判断」とは、アクラシアにおいて本来問題となるような「最善の判断」ではなく、「無条件的判断」ないし「全面的判断」と呼ばれるもので、これは意図に相当するものです。この解釈の下では、(P1)(P2)及び(P3)アクラシアは存在するという三つの原理の間での不整合は避けられます。しかしそうすると、どうしてあらゆる事情に鑑みての最善の判断が、それと整合する見条件的判断に結実しないのかという問題が生じます。
ここでは、デイヴィドソンの見解である全体論的な合理主義と行為の因果説の間に亀裂が生じています。アクラシアを引き起こしている欲求は、全体論的に見てアクラシアを合理化していないのです。逆に言うと、行為を最も合理化してくれるはずの欲求が、行為を引き起こす原因としての強さを発揮しません。
ではアクラシアを引き起こしている欲求はその強さをどこから獲得しているのでしょう
2 二つの分割論
アクラシアは、一部の心的状態によっては支持されているがトータルな行為理由の見地からは合理化されていない行為といえます。こうした行為を説明する方策は二つあります。
・二つの実践推理の対立・葛藤が背景にある現象として捉える
・アクラシアの起源を実践推理の外に求める
デイヴィドソンは前者の道を選びました。行為決定に関連のある命題的態度の集合を、デイヴィドソンは心と捉えます。そしてアクラシアは、心的状態のローカルな集合によっては合理化されるがそれを含む心の全体からは合理化されていないものとして描かれます。デイヴィドソンの心の分割とは命題的態度の集合間の対立です。
しかしこれでは、どうしてトータルな見地から最善と判断している行為への欲求よりも、ローカルな見地からしか正当化されえない行為への欲求の方が強い強度をもつのかという問題には応えられません。合理的な行為生起を範にするデイヴィドソンにとって、実践理性によって最善と判断される他に、行為への欲求・動機を高める過程は存在しないのです。
そうするとここでも、意図の生起・目的を持った行為の生起には実践推論は必要ないという論点――行為と思考の分割が提起されるべきです
3 動機と価値
実践推理において欲求は全体論的に扱われます。そこでは、行為主体にとっての欲求の重要度、どれを優先して行為すべきかというその価値が判定されます。そして欲求には行為の動機としての側面があります。通常の行為においては、最善と判断された欲求は同時に動機としての強さを高め、欲求された行為が行われます。しかしアクラシアでは最善の価値が最強の動機と常に一致するとは限りません(P2の破綻)。
するとアクラシアの存在は、以下に行為するのが最善かという推論的思考に影響を与えないまま、一部の欲求の動機的な強さのみを増大させて意図的行為をさせる要因の存在を示唆しています。このような要因は、通常の合理的な行為においても、実践理性と共同して主体の行為を導いているはずです。
4 近接性から注意へ:ミシェルの実験
前節でみたように、懐疑論者はアクラシアの原因として、報酬の物理的・時間的近接性を指摘していました。しかし、まじめすぎる人の事例のように、報酬の近接性では説明出来ない事例も存在していたのでした。ここで、近接性という概念をより一般的なものへと鍛えなおす必要性があります。この課題にはW・ミシェルらのグループによる実験が参照できます。
【Mischel and Ebbesen 1970】
被験者:3歳半〜5歳の就学前児童32名。二つのクッキーと5つのプレッツェルのどちらが好きかを聞かれ4群に分けられる。
・待機の間、両方の報酬を目の前にして待つグループ
・自分の選んだ方の報酬のみを目の前にして待つグループ
・自分の選んでない方の報酬のみを目の前にして待つグループ
・どちらの報酬も目の前にしないグループ
被験者は部屋から出た被験者を待たねばならない。その長さは前もっては知らされていない(実際は15分)。待ちきれなくなったら実験者を呼んでいいが、その場合自分が選んだのとは違う方の報酬が与えられる。
ミシェルの予想: すぐには手に入らない報酬に注意を向けていた方が長く耐えられるのではないか
結果: (短) 両方 < 選んだほう < 選んでないほう < なにもなし (長)
・予想とは反対に、注意は待機時間を耐えるのに負の効果をもたらしている
→報酬の現前はフラストレーション効果を増大させ、待機時間をより困難にしたのではないか
【Mischel, Ebbbersen and Zeiss 1972】
待機中に――玩具などを使って遊ぶなど外的に観察可能な観察への従事/「何が楽しいことを考える」などの内的な活動への従事/気散じ手段が与えられないの3群
→活動に従事した方が待機時間が長くなる
【Mischel & Moore 2007】
報酬のスライドのイメージに注意を向けることで、待機時間が延びることが分かった(これまでの結果と逆)
これらの実験から、重要なのは対象への注意の向かい方、報酬の表象のされ方であることがわかります。D・E・バーリンやW・K・エステスは、報酬となる刺激には「興奮させ、動機付け。行動を完遂させるような」仕方で表象される場合と「抽象的で、情報的で、図像的に」表象される場合の二通りがあると論じました。スライドのイメージは後者のタイプのものであり、被験者に報酬のことを想起させつつも、行為へと動機づけないような仕方での表象だと考えられます。実際、実物を目の前に注意を向けているとしても、味や触感に注目するように指示された群は、形や色、他の事物との類似関係に注目するように指示された群よりも待機時間が長いことが分かっています(Mischel and Baker 1975)。
こうしてミシェルらの実験は、自制にとって重要なのは、報酬を心の中でどう表象するかという認知的な条件だという結論に達しました。
5 想像力・習慣・他者
ここまでの実験では被験者は受動的に待っているだけでしたが、日常生活では、主体の能動的な活動が報酬の到来に直接かかわってきます。そこで、自分が選好した玩具で遊ぶために、退屈な反復作業に従事しなくてはいけないという状況での実験が行われました。すると、報酬に注意の焦点を合わせるように具体的な指示を与えられた群は、向けないように指示された群、指示なしの群よりも自制心を発揮して作業を完了するよい成績を収めました(Mischel & Patterson 1976; Patterson and Mischel 1976)。
これでミシェルの実験結果はアクラシアを招くような日常的な葛藤状況にも適用できるようになりました。最善の行為へと動機づけられる鍵は、実践的推論に従事することではなく、注意や想像力の向かいかたに関する訓練なのです。アクラシアの場合には、ある行為を最善と判断しておきながら、別の行為の「行為を完遂させるような性質」の方に注意が奪われることで、価値と動機の分裂が生じているのです。注意という推論とは独立に働く心の機制に、アクラシアの可能性が担保されています。いまや「近接性」という概念を単なる「注意調節器」として扱う説明が必要だとわかりました(Mele 1987)。これなら、まじめすぎる人の事例も説明可能になります。
また、行為へのモチベーションを高める要因として、ラザールは想像力による「観念の連合」を(広告やCM)指摘します。さらに、ローティは社会的趨勢(同調圧力圧力)が注意や習慣と補強し合っていると指摘します。ここではむしろ、「他者の信念と欲求」が行為を決定してしまうのです。
以上までで見てきた実践推理とは独立に行為へのモチベーションを高める要因の存在は、P2が端的に不備であることを示しています。最善の判断は、あらゆる事情に鑑みたものであっても、常に最強の欲求、行為への動機付けを保証するものではないのです。こうして、アクラシアのパラドクスは解決されました。
しかし、ここで別の懐疑論に逢着していないでしょうか? アクラシアは、「最善の判断に背く自由な行為」だとされました。しかし実践理性という理性的な思考過程から独立した過程によって決定されている行為を、はたして真の意味で「自由な行為」と呼べるのでしょうか?
6 行為と意識:リベットの実験
行為と自由の問題を、「基礎行為」の場面で考えてみましょう
・リベットの実験の紹介
・リベットの有名な実験は本書で提示されたアクラシアの説明と整合します。単純化された基礎行為でさえ、アクラシアの存在可能性と整合する意識と行為の乖離が確認されたのです。この実験により、意識と行為の乖離は、あらゆる行為一般の根底に見出せる普遍性を獲得したといえます。