Lack of Character: Personality and Moral Behavior
- 作者: John M. Doris
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
- 発売日: 2005/03/07
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- Doris, J. (2002) *Lack of Character: Personality and Moral Behavior* (Cambridge University Press)
- 1 Joining the Hunt ←いまここ
- 2 Chacarcter and Consistency
- 7 Situation and responsibirity
要約
・ドリスの確信:「倫理について生産的に考えるためには、人間について現実的に考えなくてはいけない」 →そう思わない人も相当いるので議論がいる。この本では、西洋の倫理的伝統で支配的な「性格」概念が、現代の実験心理学によれば誤りだと示す。
・性格からは規則的な行動が顕在化すると考えられている:悪い性格の人間は頼りにしてはならないが、善い性格の人は、道徳的に間違いやすい圧力の下でもよく行為できる。
→人生の道徳的な色合いを決定するのは性格であり状況ではない(「性格は運命である」)
・しかし、現代の実験社会心理学には「状況主義」の伝統があり、行動は状況の変化に超敏感だと観察されている。性格要因より状況要因の方がよい予測因子である。
→このことは倫理学にも影響する。倫理的考察を性格心理学から引き離すことで、望ましい行動により影響力を持ち、経験的にも尤もらしい<情動・評価・熟慮習慣>を促進できるだろう。この結論を出すためにこの本は次のように進む
(1)性格概念の分析 → (2)性格にとって問題含みな経験的証拠の吟味
→(3)この問題が倫理に与える結果を考察
問題の私見による歴史
・1958年:アンスコム「近代の道徳哲学」 ――英語圏での「徳ルネサンス」の走り
- 「適切な心理学の哲学が出来るまで倫理学をやるのをやめよ」→受け継がれなかった
- 「アリストテレスに見えるような徳概念の強調」→受け継がれた:ウィリアムズ [73, 85, 93, 95]、フット [78]、マクダウェル [78, 79]、マッキンタイア [84]。徳が哲学の中心に返り咲き、道徳心理学へ関心が集中
・道徳心理学は道徳的文脈における動機・情動・認知の研究。しかし、道徳心理学を研究する哲学者は、心理学の関連業績を検討しなかった。それどころか、哲学者の道徳心理学が性格に注目する頃には、性格概念は人格・社会心理学者によって問題視され始めていた(Milgram [63, 74], Mischel [68], Derley & Batson [70] ……)。しかし多くの哲学者はこの緊張関係を無視した(専門化した学科にありがちな「温和な無視」・「経験科学は倫理に影響しないと」いう同意に基づく敵意)。
・1990年代:倫理は経験科学を真剣に取らねばならないという見解が真剣に取られだす(「経験的知見に基づく倫理学」の傾向)。ただしFlanagan [91]を除き、経験科学を十分精緻に検討したものはなかった →もっと念入りで粘り強い研究が必要である
・経験的知見に基づく倫理学の流行には様々な要因があった
- 絶望:近代の道徳哲学が悪性の停滞に陥っている感(マッキンタイア・ウィリアムズ)
- 嫉妬:認識論と心の哲学が、人間科学と生産的に関与していた
・科学と倫理には論理的ギャップがある(記述的/規範的)という議論が、「倫理的自然主義」により論駁され始めてきた(Raiton [95])。
・倫理的自然主義は、「人間と人間が出会う倫理的問題は、何らかのかなり実質的な意味で自然現象であり、科学の方法と似た経験的方法論を用いて解明され得る」とする立場だとしておく。これは本書の立場でもあり、議論を尽くした後に方法の擁護は行う。
性格について語る
・性格語りは経験的評価の適切な対象なる記述を伴っている。性格特性の帰属は行動と心理を描写し説明と予測を行う。性格語りは「厚い」言説(評価と記述の混合物)ではあるが、記述的な負荷を持つものとして理解するのは自然だろう。
・道徳哲学者と社会心理学者は「行為の説明」という大志を共有している。しかし両者の説明が食い違う場合、性格特性に言及する哲学的説明は一般に実験社会心理学的説明に劣る。人々が実際に持っていない性格構造の存在を仮定することになるからだ。
・また、性格や徳に関する議論は幼児の学習や教育の場面でもよく見られ、道徳教育が性格の発達を促すとよく言われる。この主張は経験的評価を容認する(詳細は後)。
心理学の問題
・道徳心理学が経験的に説明可能だと認めても、実験心理学によって説明可能だという事にはならない。実験心理学には2つの源泉を持つ全般的な懐疑論が存在する。
科学としての心理学(軽蔑的な意味で)
- 心理学は所詮西洋の伝統の中の科学であり、他の文化を十分理解できないのではないか。
→社会心理学者は文化差により提起される問題に明示的に取り組んできた。また性格倫理と実験心理学の栄えた場所は同じ(英米の大学付近)なので、性格を扱う心理学者に視野偏狭という非難は当たらない(東アジアより英米の方が性格概念は顕著である)。問題は文化横断的でなく文化内のもの。
- 心理学実験は文化の研究には向かないのでは? 実験は背後の心理過程ではなく「客観的に測定可能な」振る舞いに焦点をあてることが多い。その振る舞いにせよ、実験で操作を行うので実験室外のことについては何も教えてくれないではないか。
→確かに人工性の非難は正しい。ただしその「程度」は、実験を詳しく見るまでは決着がつかない。哲学者には、文学や歴史が我々の人生について多くを教えてくれると考えるのがいる。まあそうかもしれないが、それらが哲学的著作の中で果たす役割(話を語り反応を引き出す)は「思考実験」と全く同じである。思考実験の方法は不穏であり、関連する直観を人々が実際どのくらいの真剣さとの範囲持っているかは経験的問題である。なぜ調査しないのか。その過程では実験心理学が必要である。心理学実験には欠点もあるが、思考実験より人工的だと考えるのには無理がある。
・ともかく以下で実験的見解がいかに豊かな道徳哲学を動機づけるか見よ
非科学としての心理学(軽蔑的な意味で)
・心理学者ですら心理学を学問として未熟だと考えている。こんなものに頼っていいのか?
→そんなに悲観的にならなくてもいいと思う。
・自然科学は人間科学に比べ(少なくとも現象の予測と介入の点で)進歩している。心理学とハードサイエンスの進歩の不均衡を説明するのは、単にその若さではなく、対象の扱いにくさ(複雑さ)である。
・心理学には独特の障壁がある。例えば「多重実現可能性」や、倫理的要請からの実験の制限。実験が倫理的に許されても、「人間的要因」、実験者の年齢や振る舞いなど些細におもえる実験環境の違いが、反復的実験や体系的な実験の操作を許さない。
・こうした様々な相違は、人間科学は自然科学と全く別の、「解釈」を目的とした営みだという見解を導くかもしれず、その場合自然科学との不都合な比較を排除できるが、人間科学も予測を目的としている点でこの見解には流石に無理がある。他の個別科学で人間の機能の包括的説明を与える(かつ心理学よりよく予測するようなもの)現在のところないのだから、心理学は恥じることはない。
科学的心理学と常識
・一般人は心理学者と同じことを相当うまく行う(解釈・予測・行動の操作……)ので、常識は心理学的理論化に大きな制約をかける。この点で、性格などの常識的観念を否定する状況主義者には、「では何故そうした誤った観念が存続しているのか」を説得的に論じる義務がある。この課題には後で取り組む。常識との合致はその学問がうまくいっていることの明白な証ではないことには注意せよ。
・また既に述べたように、実験室という人工的状況の産物がその外への一般化を許すかは問題含みである。しかし、状況主義は1920年代からの大量かつ多種の実験に由来しており、過剰一般化との非難は簡単には適用できないだろう。将来の知見の蓄積によっては主張が覆されることは可能だが、経験的支持の豊富さを考えればその時がすぐには来ないと信じる良い理由がある。
呉越同舟
・ドリスは経験主義にシンパシーを感じる派であるが、ドリスにおいて経験的に動機づけられた「性格への懐疑」は、あんまり経験的でない人とも共鳴している。
・つまり、ポストモダニストは同一的なあるいは統合された自我という観念に懐疑的であり、類似の考えに夢中の心理学者で、近代を「自己概念の断片化」として特徴づけるものもいる。近代的自我は、複数の社会的役割の相対立する要求により「飽和=集中爆撃」(saturated)され、「全くの‐無‐自己」へと希薄化=陥落(reduce)してしまったのである。また、近代の経験は「高度の雑色化」という性質を持っており、その結果〔自己は〕諸自己へと断片化し「バラバラに崩壊する」危機に立たされたと主張するものもいる。
・こういう人の事はどうでもいいと思われる向きもあろうし、分析的議論と経験的証拠を関心とする哲学者としては実際自分もたいして何も思わないが、しかしこの集中=収束は指摘するに値する。というのは、もし本書でよって立つ実験的社会心理学が信頼を失うようなことがあっても、それを動機づける性格への懐疑はまったく違う方法論のもとで生き残り続けるだろうからだ。