えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

心理的利己主義についての哲学的検討 Feinberg (1958/2008)

Reason and Responsibility: Readings in Some Basic Problems of Philosophy

Reason and Responsibility: Readings in Some Basic Problems of Philosophy

  • Feinberg, J. (1958/2008) Psychological Egoism. In J. Feinberg & R. Shafer-Landau (eds), Reason & Responsibility (13th ed.) (pp. 520-532). California: Thomson Wadsworth.

利他主義に関する古典的文献を読みました。全中学生必読です。

◇  ◇  ◇

  まず「心理的利己主義」と「倫理的利己主義」が区別されます。事実問題として人間の行為はすべて利己的な欲求から来るという主張が本論の主題である前者、そうすべきなのだという主張が後者です。「利己的な欲求」というのは色々あり得ますが、特に「自分の快楽への欲求」を重視する「心理的利己主義的快楽主義」が重要な敵になります(A)。
  つづいてファインバーグは、我々が心理的利己主義に魅かれがちな理由を4つあげます(B)。

  • (1)自分の全ての行為は「自分の」欲求から生じるので、利己主義は避けられないと考えてしまう
  • (2)欲求が充足したときにはふつう快楽が得られるので、本当に欲していたのは快楽だったんやと思ってしまう
  • (3)自分の欲求に関する自己欺瞞を知っているので、全面的な自己欺瞞を想定してしまう
  • (4)我々は賞罰によって道徳教育するが、これが心理的利己主義的を前提するように思われる

  (1)「全ての行為は自分の欲求から生じる」というのは完全に当たり前ですが、今問題となっているのは欲求の「種類」――それが利己的か、そうではないか――なのであり、欲求の所有者ではない。言い換えれば、問題は欲求の「対象」(例えば、自分な快楽を欲しているのか、そうではないか)であり、欲求の「由来」(誰の欲求か)ではない。(1)のような議論は深い混乱に基づいているとファインバーグは指摘します。
  (2)に関しても、欲求充足の副産物として快楽が生じることは、欲求の対象が快楽であることとは全く違うと鮮やかに切り返します。ここではさらに、自己利益を犠牲にして相手に害を与える「悪意」の存在を考えると人間はむしろもっと利己的になるべきだというバトラーの主張が引用されたりしており面白い部分です。
  (3)に関しては、たしかに我々が利己的欲求について自己欺瞞する事はあるものの、それを全ての行為に関して一般化するには圧倒的に証拠が足りないと論じられます〔。しかし、現代の心理学の視点からすると状況は少し違って見えるかもしれません〕。
  (4)については、賞罰によってのみ我々が道徳に動機づけられるなら、我々は賞罰のない場合には反道徳的行為を行うようになってしまうのであり、それは真の道徳教育ではないと論じられます。むしろ、それ自体の正しさゆえに正しさを追求する人間を育てるべきなのです。
  補足として、「快楽」とは感覚ともとれれば充足ともとれるという点が指摘されます(マゾヒストは打たれている間感覚としての快楽を持たないが充足としての快楽は得られる)。前者の快楽については、例えば食事の際に味の感覚それ自体を欲求するのはグルメのような稀な人であり、同じように快の感覚それ自体を追求しようとする人は稀だと言わざるを得ないとファインバーグは論じます。お風呂に入るとたしかに快楽を感じますが、大抵の人は体をきれいにするためにお風呂に入るのです。続いて後者の快楽について、ファインバーグは次のような会話を想定し、利己主義者が無限後退に陥っていると指摘します。

利己主義者「すべての人間は充足だけを欲求しているんじゃ」
ぼく「何の充足ですか?」
利己主義者「欲求の充足じゃ」
ぼく「何を欲求してるんですか?」
利己主義者「充足を欲求してるんじゃ」
ぼく「何の充足ですか?」
利己主義者「欲求のじゃ」
ぼく「何への欲求ですか?」
利己主義者「充足じゃ」 ……

  さて、快楽ではなく、しあわせや自己充足を重視しつつ、全ての人間は利己的だと主張する人々もいます。しかしこうした主張は一体どういうものとして提出されているのでしょうか。これが経験的な一般化であるなら、利己主義者は自分の主張が反証されるのはどういう場合なのか明らかにしなくてはなりません。しかし、例えば我々が何か利他的な行為の例を利己主義者に示すと、大抵「いや、よくよく考えればその人は利己的だったとわかる」とかなんとか言いだします。ここでは、いわゆる「相関者抑圧の誤謬」、つまり、ペアをなす言葉のうち片方の意味を、もう片方の意味を取り込むような形で再定義してしまう誤謬(Lowenberg, 1940)が犯されているのです。
  そうすると利己主義者は我々の心理に関する主張をしているのではなく、言葉遣いに関する主張をしているのかもしれません。つまり、人間の行為が全て利己的になるように「利己的」という言葉を使おうと「提案」しているのです。このような提案が何か有益だとは思えませんが、仮に言葉遣いを改訂しても、行為に2種類の区別ができるという点は何も変わらないので、新しい「利己主義」の内部でまた行為を分けることになるのは必定です。おお神様・・・!