えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

意識の数と人格の数を区別する Davis (1997)

http://link.springer.com/article/10.1023%2FA%3A1004278612080?LI=true

  • Lawrence Davis (1997). Cerebral Hemispheres. Philosophical Studies, 87(2): 207−222.
  • Ronald Puccetti (1981) は、分離脳患者には2つの意識の流れと2つの人格(Person)があると主張する。これに対しGrant Gillett (1986) は、分離脳患者の人格も意識の流れも1つだと示唆している。
    • この論文では、意識の流れは2つ、人格は1つという説を擁護する。
  • まず意識の方から検討する。何かが「意識的」であるとは、「知覚による行動の制御」および「実践的推論」ができることだとする。
    • この観点から見ると、たしかに、左右の脳にはそれぞれ異なる意識の流れが結びついているようにみえる。
      • 右半球にだけ刺激を提示し(例:KEYという文字)し、何を見たかを尋ねると答えられないが、見たものと同じものを指すように言うと左手でカギを指せる。言語報告も指差し行動も、それぞれの半球が知覚に基づいて実践的推論をした結果の行動であるようにみえる。
  • (※言語使用を意識の基準としたい場合には、右脳にも言語能力がある事例に議論を集中させてもよい)
  • ところで、意識の流れが半球に結びついているとはどういうことなのか。
    • 知覚や思考には担い手が必要である。というのも、ある状態が知覚や思考であるためには、それはその他の心的状態と相互作用していなければならない。そして、そうした状態の相互作用がまさに心的状態の相互作用であるためには、各状態は刺激と運動に結びついていなくてはならない。これが可能であるためには、環境に反応し働きかける、一個の存在者(=知覚や思考の担い手)がいなくてはならない。
    • このような存在者は半球そのものではなく、半球を含むが体全体よりは小さいような、一定の何かであろう。右半球を含むこの「何か」をR、左半球を含む何かを「L」と呼ぼう。RとLは多くの体の部分と機能を共有しているが、Rに左半球は含まれないし、Lに右半球は含まれない。
    • 意識の流れを持つのはRやLである。
  • 人格の検討にうつる。人格であるために、意識をもつだけでは十分ではない。自分自身について明示的に思考できること、すなわち自己意識[self-consciousness]が必要である。
    • ここで、人格2つ説を次のように擁護できるかもしれない。
      • 自己についての明示的な思考とは、思考の言語における「私」という語が使われている思考のことだ。LもRもこの思考は持てているように見える。
    • しかし、Lは指差し行動について、「自分が何故そうするのか分からない」と言うのであり、「自分とは違う誰かが指差しをしている」とは言わない。Rからも、自分がLとは違う人物であるというような疑念は伺えない。したがって、LやRの思考の言語における「私」が、LやRそのものを指しているとはいえない。したがってこれらは自己意識を欠いており、人格ではない。
    • むしろ、ここで「私」の指示対象になっている(と同時に「私」という語の使用者でもある)自己意識的な人格は、LとRの両方を含む全体(W)ではないか。
  • この主張は単に、Lの発話をチャリタブルに解釈するだけのものではない。「私」が心の中で果たすはたらきをうまく捉えている。
    • (1)「私はF」という形式をもつ一人称的な信念は、その人の内部にある自己気づき [self-awareness] メカニズムによって生じ、しかもその信念はおおむね真である。分離脳患者の場合に一人称的な信念がこのように働くのは、「私」の指示対象がWである場合に限られる。
    • (2)一人称的な信念の中でも、行動の理由にかんする信念は、より理論依存的であり誤りやすい。実際人は、あるレベルでは実際にもっている情報について、それに気づいていないと誠実に主張することがふつうにある。Wもそのような状況にあると考えられる。
    • (3)運動にかんする自己気づきのメカニズムでも「私」が使われているはずだ。だがこの点で見ると、「私」の指示対象をRやLとしてもおかしくないように思える。実際、もし分離脳患者が手術前に人格2つ説を学んでいたとすると、「鍵を指差したのは誰か」という問いに対して、「自分(L)ではなくRだ」と答えるかもしれない。だがこの時ですらLは、自分の左手が鍵を指すさいの行為者性の気づき [awareness of agency]を(健常者と同じように)もち、その上で自分の関与を否定していると考えられる。しかしこの気づきを可能にするような内的メカニズムで用いられている「私」は、行為者性の気づきが左手に関連するものである以上、LではなくWを指示しているはずだ。

  • 以上の議論に対し次のような反例が考えられる。スミスとジョーンズの体内に無線送信機が埋め込まれ、スミスが腕を上げようとするとスミスと全く同じ行為者性の気づきがジョーンズにも生じるようになった。この時ジョーンズが「私が手を上げたのだが何故だかは分からない」と言ったとする。上の議論が正しければ、この「私」はスミスとジョーンズの統一体を指すことになるが、それはおかしいのではないか。
    • しかしこの例は分離脳の例と全く似ていない。というのも、Wは意識的である(知覚で行動をガイドする・実践的推論をする)が、上で描かれる限りのジョーンズ-スミス統一体はそうではなく、Wと同じ意味で存在するとは言えないからだ。
  • 最後の論点。「鍵を指差したのは誰か」という問いに対してLは「私だ」と答えるかもしれない。この発話は、Lが意識をもつ(実践的推論をする)以上、何らかの動機と信念によって説明できるはずだ。しかしLの「私」はLではなくWを指すため、Lは自分自身を指せない。そうすると、一体どんな信念を引きあいに出してLの行動を説明すればいいのか? この説明が不可能とすると、Lは意識を持つという当初の想定を諦めるべきではないか?
    • ここで重要なのが、自己について明示的に思考することと暗黙裏に思考することの区別だ。ここで言う暗黙的な信念とは、対象の行動をよく説明するために、対象の概念的・言語的資源とは無関係に、私たちが帰属させる信念のことだ。この意味では、Lに対し、「自分が鍵を指した」という信念を帰属させることができる(動物に信念を帰属させる場合に似ている)。