えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

徳倫理学者の言う徳は理想が高すぎる Merritt, Doris, Harman [2010]

The Moral Psychology Handbook

The Moral Psychology Handbook

  • 作者: John M. Doris,Fiery Cushman,Joshua D. Greene,Gilbert Harman,Daniel Kelly
  • 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
  • 発売日: 2010/07/06
  • メディア: ハードカバー
  • クリック: 4回
  • この商品を含むブログを見る

  • The Moral Psychology Handbook

目次
Chap.4 Moral Motivation
Chap.8 Linguistics and Moral Theory
Chap.9 Rules
Chap.11 Character ←いまここ

1. 導入

・徳倫理学:性格をベースにしたより「心理学的実在論」的な理論
・人格・社会心理学:「性格」という概念に揺さぶり
→徳倫理にみられる性格へのアプローチへの懐疑論があらわれ、徳倫理学者が応答

2. 性格に関する懐疑論

「ロバストな性格特性はどのていどあるのか問題」と懐疑的論証

性格に関する基本的な仮定:ロバストな特性を持った人は、様々な状況でその特性に関連した行動を確かに行う事が出来るという仮定。この特性の典型例は徳である。

しかし、社会心理学においては「状況主義」的な実験の伝統がある。例えば――
・10セント硬貨を拾ったばかりの人は、他人が落とした紙を拾う手伝いを22倍おこないやすくなる(88% vs 4%)(Isen & Levin 1972)
・忙しくない通行人は忙しい通行人に比べて、苦しんでいる風な不運な人を4倍助けやすくなる(63% vs 10%)(Darley and Baston 1973)
・芝刈り機が近くで鳴っていると、本を落とした怪我人を5分の1しか助けなくなる(80% vs 15%)(Mathew 1974)
(・これらの行動はまったく例外的ではなく、むしろ典型的
 ・性格特性を測る指標は、実は特定の状況における行動と結び付けられている(Mischel 1968))

→状況の影響は、それを被る人の性格とはあまり関係なく、効果をもたらすように見える。すると、行動はロバストな性格から「流れ出てくる」のだと理解していていいのだろうか?
【懐疑的論証】
1 もし行動が典型的にはロバストな特性によって統制されているとすれば、体系的な観察を行った場合、行動上の一貫性が広く見られるだろう。
2 体系的な観察を行っても行動上の一貫性は広く見られない
3 ゆえに、行動は典型的にはロバストな特性によって統制されている訳ではない。
→この論証が妥当だと、上の仮定や性格を基盤とした道徳心理学は脅かされる。とりあえず2は事実なので、徳倫理学者は前提1に取り組む

内的状態の強調

1の条件法は次の二つのアイデアを用いている
・ロバストな特性の帰属が正当化されるためには、一貫した行動の証拠が必要
・公共的に観察可能な「顕在的行動」
→しかし「顕在的行動」という考え方の使用は厄介(懐疑論者ですら認める)。徳倫理学者のいう徳の帰属は、顕在的行動ではなく、特徴的な内なる状態という証拠によって保証されるという見解もある。
例:特性=「特定の種の刺激に対し、特定の仕方で行動するような特定の強さの性向を持つ長期的な傾向性」(Webber 2006)
(また、様々な特性の中でも、徳に特徴的なものとしてSwanton [2003]は情動的な傾向、Annas [2005]は理性的な傾向を強調)

しかし、内的状態を強調しても問題は減じない。
・認知的機能は状況の変化に影響を凄く受ける(Dettermsn 1993, Ceci 1996, Tversky and Kahneman 1981〔アジアの疫病〕)
・認知環境のわずかに変化しただけで、異なる価値がサリエントになる。
(例:文章から一人称複数を探すように求められてプライミングされた被験者は、一人称単数を探すように求められた被験者に比べ、自分の人生の指導原理は「相互的な」価値(絆、友情、家族の保護)であると答えがちになった(Gardner, Gabriel, and Lee 1999。)
・「理性」と「行動」とは簡単に引き離せない。実際、行動の非一貫性が出るのは、状況をどう「コード化したか」が違うからで、この「コード化」の方が状況の影響を受けてると論じる者もいる(Darley and Baston 1973)。
 →つまり経験的知見によれば理性も顕在的行動も同じくらい状況の影響を受ける。→伝統的な性格理解のなかにある「理性による導き」という考え方は経験的に妥当ではない

3. 性格と実践的合理性

実践知と対人的感受性

・実践知(フロネーシス)の形での合理性に重きを置く西洋哲学の伝統(プラトン、アリストテレス、ストア派)は現代にも続いている
 実践知とは「実践的な事柄に関して正しく推論する能力」(Hursthouse 1999)であり、様々な状況下にあって徳のある人々の行いを組織立てる。
こうした能力の行使は次のような実践的推論の観点から再解釈されるだろう。

1 身体的に品位を欠いた状態を自らにもたらすのは恥である
2 ここに、私に嘔吐薬を飲むように求める人たちがいる。何が起こるか観察したいのである。
∴ 私は薬を飲まないだろう

1は、「どのように生きるべきかに」関する一般的な考え方から出てくる、長期的な関心を述べる。
2は、現在の状況を、その関心の対象が問題となっているような状況だと同定する。
他の考慮がなければ、帰結が引き出される。が、実際にはさまざまな考慮を行う必要がある。
→実践的知識には、「手に入る限りの他の関心が、目下の問題に対して持つ重要性に暗黙的に気づいていること」(Millgram 2005)が重要な要素として含まれる。

 倫理的な行いに関して言えば、このような「全てを包括する理性の感受性」は、対人的な感受性である。徳ある人は、自分と出会った人が、その出会いの状況のいかんによらず、自分から受け取るに値するものは何なのかに、暗黙裡に/明示的に気づいている。だから徳ある人は、様々な社会的状況に対し適切な情動的応答をする傾向を持ち、どのような状況が倫理的に必要なのかについて反省・熟慮することができる。

難点

→しかし、認知科学で明らかになる認知観を踏まえると、このような実践的合理性観のもとで良い実践的推論をするのは難しい(Section6, 8)
 もちろん、性格心理学者は広く適応できる心理学理論を構築する必要は必ずしもない。その場合、状況主義の実験は被験者は欠陥のある実践推論者だということを示しているにすぎないと主張することもできる。
 しかしこのような議論の尤もらしさは、哲学的な徳倫理学者の認知モデルと認知科学のモデルがどのくらい離れているかによる〔ある程度近ければ有効である。しかし、〕前者があまりにも後者から離れているような場合、前者で考えられているような認知プロセスの働きは消去すべきではないのか? その場合どのように?
→これらの問いに応えるために、実践的合理性に関係する経験的知見をもっと見ていく

4.欠陥のある合理性

道徳的乖離:道徳的規範を受け入れていると考えられるにもかかわらず、それに従って行為できないという現象

・ミルグラムの服従実験がこの現象を示す古典的な例 
(実験を「自由回答式」(電流の量を自由に決めてよい)にすると、多くの人があまり多くの電気ショックを与えない。二つの条件での差は、実験者の教示の仕方という状況要因に主によると思われる)
・服従実験の被験者は、実験に協力しようという実践的推論と、内的規範にしたがった実験をやめようという実践的推論を行ったはずである。しかし、後者の対抗する推論が前者の推論をうち負かさなくてはいけないということを認識できなかったのである。
→害に対して内的な禁止令をもちつつ、被験者が抗議した後ですら実験者に従ったようなものは、あきらかに実践的合理性の失敗例であり、「道徳的乖離」の一例と言える。
(大きな苦痛を感じながらも実験者に従った人は、何も感じない人よりもまだ有徳ではないか? →違う。そう考えると、行為や不作為がもつリアルな影響から安易に距離をとることになる。感情は行為に至らない限り道徳的問題とはほとんど無関係である。)

5 道徳的乖離を説明する

合理化による説明

【SabiniとSilverの「恥の恐れ」による説明】
「何を信じる/なすのがまとも かの認識に関して自分が孤立しており、それに従って行為するには他の人々と対立する立場に立つ必要がある場合、人々は恥を予期することで混乱、抑制されてしまい、自分自身の良心を信じられなくなってしまう。」
→このプロセスが、服従実験を含む全ての重要な社会的影響に関するデータを説明する。
・恥の恐れは、簡単に素姓が分かるタイプの状況要因に反応するものなので、ミルグラムが示したような結果はあまり動揺を誘うものではなくなる。
・以上のような説明を「合理化による説明」と呼ぶ。状況主義の実験が厄介な理由の一つは、被験者の振る舞いが不合理に見えるからである。合理化による説明で、この不合理さはなくなる、ミルグラムの被験者は最良の理由によっては行為していなかったかもしれないが、恥を避けようという理由によって行為したのである。
▲しかし、芝刈り機の実験などにはこの説明は使えないように見えるので、説明としては部分的にしか有効ではない。

清潔化による説明

清潔化による説明:被験者の行為は単に合理的なだけでなく、むしろ実際に徳と整合的(Sreenibasan 2002)
例えば、善きサマリア人の実験(Darley & Baston 1973)では、倒れている人は本当に傷ついて倒れているのか微妙なセッティングになっている。また「不完全義務」もある。さらに、約束を守るという誠実さが人助けの徳(Helpfulness)に勝ったのかもしれない。
→急いでいる被験者の長期的な目標やポリシーの中に現れるだろう全ての道徳的考察を考慮すれば、全てを考慮した道徳的判断が倒れている人を素通りすることを許したとしてもそれは許容可能だとわかるはずである。
▲明らかにすべてのケースに適応するのは無理

一般的欠点

さらに、合理化/清潔化による説明には一般的な困難がある。彼らの認知観
・「行為者は、自分が理由だと捉えた(熟慮すれば捉えるだろう)ものにもとづいて行為する」
は、経験的に妥当でないように強く思われる。

6 別の視点

ここまでのまとめ

道徳的乖離が起こる時、既存の規範から行為の選択への経過の中で何かがヘマをしている
・徳倫理学者:実践的合理性の不十分さによって説明
・その反対者:状況要因の力によって説明
→論争を明晰にするために、道徳的に無関係な状況要因と、それに反応する人々の傾向性との間の相互作用をどう説明するかを知ることが重要

脱人格化された傾向性

 ここでは「脱人格化された傾向性」(行為者の評価的なコミットメントから大幅に独立に機能する)に注目。状況要因が与えられた時、個人的な価値によってはあまり影響されない認知プロセスを通して、高度に予測可能な行動が出てくるほど、その反応の傾向性は脱人格化されている。
・脱人格化された反応が意図的な方向付けに抵抗すると、道徳的乖離が増加する。

他者へ方向づけられ注意、展望

 ここまで見てきた証拠が倫理や道徳哲学にとって重要なのは、それ対人接触を含んでいるからである。そこで、被験者が持つ、他者へ向けられた注意が、意識下で抑制されたり方向付けを誤ったりするということが、道徳的乖離を「部分的に」説明してくれるだろう。
7:多くの重要な認知・動機的プロセスが意図的な方向付けなしに進むという主張への経験的証拠を見る 
8:そのようなプロセスによって他者へ向けられた注意がしょっちゅう影響を被るという経験的証拠を見る→状況主義の実験の再検討
9:こうした分裂から道徳的に重要な認知を守るための改善法の可能性について議論する。

7.自動性と不調和

「制御」と「自動」

 1970年頃から、認知科学者は「制御」と「自動」の概念を用いて研究を組織化してきた(二重過程説)。(ただし、この二つは排他的なカテゴリではなく、多くの心的プロセスは混合的なものとして特徴づけられる。)
・ここで重要なのは、典型的に行為に影響するプロセスの多くが実質的に自動的だという点。特に、こうした認知プロセスはかなりの程度内観的にアクセスできない(Nisbett & Wilson 1977, Wilson 2002, Kunda 1999)。

Bargh、Chen、Burrowsの実験(1996)

1)文かき混ぜテスト(5つのランダムな順番の語列から文法的に正しい4〔5?〕語文を作成する)によって「rude」と「polite」をプライミングする(対照群も一つ)。→別室へ移動:実験者が他の被験者(サクラ)と会話している。会話に割って入るまでの時間を測定。「rude」群の方が「polite」群より優位に早く割って入った(理由も答えられなかった)。
2)「elderly」群と中立群を用意。→「elderly」群の方がエレベーターの方までゆっくり歩いていった。
3)黒人男性の顔写真でプライミングされた非黒人の被験者は、白人の顔写真でプライミングされた被験者に比べ、コンピュータのイライラさせるような不具合に対してより暴力的に反応した。人種差別を調べるための二つの質問用紙に回答させる(今の実験とは関係ないと言っておく)→結果の高い低いに関係なく、プライミング後に暴力性を発揮していた。
   →意識下の刺激の影響は被験者の内観的にアクセス可能な態度とは独立に、行動に影響を与えるようだ。

不調和

【不調和】
(1)規範的に重要な行為の機会に主体の行動に影響を与えるような自動的プロセスと、
(2)主体の規範的なコミットメントとの間に、
(3)もし主体が(1)を知っていれば、(2)の見地からして(1)を否定するだろうという関係
が成り立っていること。

不調和が広範であるほど、徳倫理学的な実践的合理性のモデルは問題含みになる。
・まず、十分統合された熟慮のような考え方:「最高の実践的知恵を持つ者は、熟慮という文脈の重要性にふさわしい真に適切な関心と真に関係した考察の最大限とを、ある状況へ傾ける人である」(アリストテレス→Wiggins 1980)に揺さぶりがかかる。
・さらに、「習慣的な感受性と反省的な熟慮の調和的関係」という、有徳な実践的推論のモデルにも問題が生じる。実践的な知恵は、反応の迅速さを必要としている(よく調和した自動性)。が、このような描像は経験的な知見からは出てきていない。
→アリストテレス的な道徳認知のモデルと現在の認知科学のモデルにギャップ

「よい生まれ」・利害対立

・このギャップの存在は、徳が稀なものであり困難だということの表れに過ぎないのでは? アリストテレスは、よい生まれが徳とりわけ正しい習慣的感受性の必要条件だと言った。例えば、既に長期間人種差別的な文化にさらされたことの不幸な結果が、人種差別的な自動的活動なのでは?
→文化横断的研究や霊長類研究を通じて、何らかの種のグループ内方向付けは人間の認知機能のほとんど普遍的な特徴だという事がわかっている(Haidt & Graham 2007)。

・また、たとえ超啓蒙された文化に生まれあらゆる偏見を超越したとしても、他の遍在的な不調和の源泉がある。例えば利害対立(自己利益 vs 個人/職業的な他者への義務)。
 製薬会社からの贈り物やサンプルなどをもらうと、内科医は特に患者に利益もないのにより費用のかかる処方を出す。しかし製薬会社からの影響は否定する(Wazana 2000)。しかも彼らの多くは、自分以外の他の内科医は製薬会社からの影響を受けていると信じている(Dana & Loewenstein 2003)。→どう見ても自動的なバイアス

まとめ

 内観と意図的な方向付けをバイパスして行動に影響を与え、それによって限られた認知リソースをかなり使うようなプロセスは、人間の認知の中に遍在している(Stanovich 2004)。自動性それ自体では不調和には十分ではないが、人間の認知における自動性が広いという事は、不調和が起こる大きな可能性を提供している。

8 他者へ向けられた注意と道徳的不調和

仮説:自動的な反応傾向によって、他者へ向けられた注意が方向付けを誤ったり抑制されたりすることで、多くの道徳的乖離が起こる。
・ただしここでの目的はこの仮説が正しいと主張することではない(それには実験がいる><)。成功しそうだと示せればよい。この仮説が真なら、アリストテレス的な高度に統合的な熟慮のモデルは深刻な困難を被ることになる。

8.1 他者へ向けられた注意

他者へ向けられた注意は相手の経験の想像を必要とする。この認知能力を次のように約定する。
・共感的反応:AとBが出会う時にA(主体)の側で生ずる感じで、B(ターゲット)の感情的状態を模倣しているもの(幸福そうな表情には幸福感)。主体の意識的な注意や意図的な方向付けなしで生じ、止めようと意図しても止まらない。ターゲットの感情的状態が「苦しみ」(恐れ、痛みなど)のばあい、主体の共感的反応は、異なる刺激・動機・行動パターンをもった二つの方向に分かれる。
・(1)同情:ターゲットへの連帯感という慈悲の感覚。相手が状況をどう経験しているかを理解する他者に方向づけられた認知的活動が伴う。心拍数が下がる。ターゲットを助けなくても罰が無い選択肢(容易な逃亡ルート)の有無に拘らず、ターゲットを助けがちに(Baston and colleagues 1983)
・(2)個人的苦痛:ターゲットの立場や感情的状態に対する嫌悪の感じ。主体は自己に方向づけられた注意パターンに戻る。心拍数は上がる。容易な逃亡ルートをもつ被験者は、持たない被験者より、ターゲットを助ける行動が減った
→逃亡に依存しない援助行動が他者に方向づけられた動機のマーカーである。

・視点共有:共感的反応が同情に向かうか個人的苦痛に向かうかに自動的に影響する、媒介的な認知要因の一つ
【Baston and Colleagues 1981】
 視点共有と逃走可能性で4群に分けた被験者に、10回の電気ショックのうち2回を受けたターゲットを見せ、自分が代わってあげて相手を助けるかどうか問う。
・視点の共有の度合い:自分の好みとターゲットの好みが一致しているか
・逃走の可能性:2回見た後立ち去っていいか、残るも全て見るか
・結果:視点が共有されていると逃走が容易でも代わってあげるが、共有されてないと援助は逃走可能性に依存する
→視点共有した被験者は自動的により多くの同情をもち、それに従って行動したのではないか。

8.2 物理的位置、社会的地位、援助/危害:ミリグラム再訪

・多くの実験により、社会的状況において、他人の特定の性質により被験者の行動は予測可能な規則性を見せることが知られている(Latene 1981)。例えば――
・直接性:時空的な近接性・遮蔽物の不在。つまり物理的位置
・強さ:セイリエンス・力・重要性…… 典型的な例として社会的地位
→ 物理的位置、社会的地位、他者に向けられた注意、道徳的に重要な行為の相互作用は?
【仮説c】
 被験者の顕在的な危害/非危害および援助/非援助行動が物理的位置か社会的地位(または両方)に依存して変化する場合、被験者の意識的な方向付けなしに働く認知プロセスによって因果的相互作用が媒介されており、被験者が反省的に考えて肯定しているような道徳的コミットメントに反する行動が帰結してしまうことがあるだろう。
・この仮説をもってミルグラムの服従実験(1974)を再検討してみる。

・被験者は、自分の個人的苦痛と実験者の立場にしか注意を払っていないかのごとく行動している。発汗や震えなど、個人的苦痛と相関する生理学的興奮も見られる。被験者は被害者の立場には不十分にしか注意しておらず、ここでは道徳的乖離が起こっていると思われる。→どのように?
・被験者は、初めは率直に実験者と視点を共有している。実験者の偽の実験説明の中では、「罰」とよく近接する形で、「生徒」(電気ショックを受ける人)「学習」など語が数多く使われるが、これはプライミングに似ている。これによって被験者は、実験の目的のために生徒は罰の対象として適切であると言う点に関して実験者の態度を模倣するようにプライミングされたと仮定できる。

【物理的位置と社会的地位】
 「役割入れかえ」を導入した服従実験(ミルグラム[1974]の実験14-16)を考察。
【実験14】:生徒の位置に実験者が来て、電気ショックを与え続けよとの指示はもう一人別の被験者(とされる人物)から与えられる。
→全ての被験者が生徒のやめてくれとの要請を聞き入れた。さらに、多くの被験者は文字通り実験者に飛びついて助けようとした。しかし被験者は自分の行動を共感的な動機によるものと説明し、状況の権威的な側面を認知したからだとは言わなかったし、普通の人が生徒でも電気を与え続ける事は無いと述べた。
【実験16】:二人の実験者が実験に参与する。コインを投げ片方が生徒の役割につき、もう片方は被験者のそばで指令を与える
→もとと同じく2/3の被験者が指示に従い続けた。生徒が実験者でも、指示を与えるものに権力がある場合、ひどい扱いをするとわかった
【実験15】:囲われた部屋に素人の生徒を置き、実験者は被験者と同じ部屋に2名用意する。生徒が抗議すると、二人の実験者は実験を続けるかどうかで見解を異にし、互いに矛盾した指示を与える
→20人中19人がその時点でやめ、残るものも次のステップでやめた。
・15と16では二人の権威者が見解を違えている中で被験者は選択をしている。学習者の位置からくる停止命令では権威が薄れており、これは物理的な距離によるのかもしれない。

8.3 まとめ

・相対的な物理的距離と社会的地位によってきっかけを与えられた行動傾向は被験者の他者へ向かう注意に影響することができ、それによって行動に影響することができる。
・実験者が持つ権力は、被験者が認めたものにすぎず、いつでも破ることができることになっている。しかし、実際に彼らが対面すると、物理的位置・社会的地位などの要因が被験者の行動に影響を与える。そしてこれらの要因は被験者が合理的に考えて従うであろう義務感をはるかに超えて作用するのである。
・以上の説明はあくまで部分的。他の社会的、非社会的要因も影響を与え得るだろう。しかしここで重要なのは、行為を決定する認知的要因が道徳的に関係ない要因によってキューされて自動的・非反省的に生じるという点にある。

9 善後策

自制

・徳倫理学の規範的理想は、行為者の反省的な監督能力に負担かけすぎ!
合理化による説明は道徳的乖離を欠陥ある実践的推論の問題だと見ていた。この見解が、道徳的行動に主に影響する認知機能が反省的熟慮の対象であると仮定する限り、経験的知見はネガティヴである。むしろ経験的にもっと尤もらしい代替の〔実践的推論観は〕、行動決定の認知プロセスが反省的熟慮の下にもたらされ得る程度だけ、実践的推論にはやはり重要性があるというものである。前もって目標やポリシーを決めておくことは、行為の時点での歓迎されざる自動的傾向を削減してくれるかもしれない(自制のメカニズム)。
興味深い自制のメカニズムの研究として、暗黙のバイアスを弱めるような認知の再訓練・グループ内のコミュニケーション技術を同定しようという試み(Dovidio et al 2000, Blair 2002)や、暗黙の態度と偏見的行動を仲介するメカニズムで自己制御に入るかもしれないものを同定しようとする試み(Dasgupta 2004, Dasgputa & Rivera 2006)などがある。こうした矯正という方法をとって、徳倫理学は熟慮的な自己改善のアジェンダを定めることはできる(「おぼえておくこと:ほかのひとがやることにはよくきをつけること」)。ただし、このような自己改善プログラムだけで道徳的乖離への傾向を軽減できるかどうかは非常に疑わしい。→しかし、幸運なことに善後策は主体の反省的熟慮だけではない

社会を強調した新しい徳倫理へ

 善後策の一つは、道徳認知の望ましい側面を活性化させるような社会の規則性を創り維持すること。ある行為の一貫性は、その一貫性に賛成・反対する社会的期待という風潮に負うことが多い。そしてこのように形成された一貫性は強固なものであり徳倫理学で讃えられているような性格と一致する(Merrit [2004] による経験的知見を入れた新たな徳倫理学の展開)
 でもある関係の中で共有されている価値を過度に信じるのはダメ。外的基準に頼ることが補足的役割を果たすし、第三者に自分の決定を正当化する必要がある際には我々は非常に注意深く体系的・批判的な考察ができることも意志決定論と説明責任という経験的研究から分かっている(Lerner & Tetlock 1999)。

組織運営について

〔省略〕

10 結論

・個々人の熟慮や自制の重要さをみとめつつ、対人関係や社会・組織のセッティング、制度の構造などでそれを補う:個人の実践的合理性に重く(リスキーに)賭け過ぎない徳倫理学へ
・また、経験的調査に関しても同じ指摘が出来る。これまでの社会心理学は、行為の機会を被験者の長期的な対人関係や社会的役割から切り離すようデザインされた実験を行ってきた。しかし、対人関係の中で観察される認知や行動の研究が、環境の影響の理解や実世界での道徳的失敗を軽減するのに重要だろう。
 社会環境を強調しても性格vs状況の問題は解けない。むしろこの戦いは、より経験的知見を入れて道徳心理学することの始まりにすぎない