えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

流転論法 Simons [2000]

Parts: A Study in Ontology

Parts: A Study in Ontology

  • Simons, P [2000] Parts: A Study in Ontology

3.3 流転論法

オカレント/継続体存在論

・日常的な考え方に基づけば、対象の根本的なクラスのひとつは「実体」。実体は空間的な三次元に延長し、時間においては延長することなく、時間の中を耐続する。(時間的に延長する「出来事」と対照的)
・ここでは実体−出来事の区別を、ブロードに倣って「継続体」−「オカレント」区別と呼ぶ。この区別は常識の礎石である。
→しかし多くの哲学者がオカレント/継続体存在論が困難を生み出すとしてオカレントのみの存在論を提案している。日常的存在論に反論する議論の中でも典型的なものは次のようなもの

流転論法

 猫ティブルスを用意する。ティブルスのしっぽを「しっぽ」、その他の部分を「ティブ」と呼ぶことにする。tではティブルスは普通の猫である。ある時ティブルスは事故にあい、事故後のt’ではしっぽがない。
 事故前はティブとティブルスは重さや形や部分などの点でどう考えても異なるものである。事故後には両者は多くの性質を共通に持つ。そこで、次のように言えると思われる。

(1)ティブルス≠ティブ at t 
(2)ティブルス=ティブ at t’
(3)ティブルス at t =ティブルス at t’
(4)ティブ at t =ティブ at t’ 
(5)ティブルス at t=ティブ at t (同一性の推移性による)
→(1)と(5)が矛盾する

流転論法の多くの前提

(a) どのように解釈してもいいがともかくティブルスのような物質的対象が存在する
(b) ティブルスのような物質的対象とその部分は継続体である。
(c) ティブルスのような物的対象は、部分を増減しても存在することをやめることはない
(d) ティブやしっぽのような物質的対象の真部分は、全体とくっついていても(つまり切り離されていなくても)存在している
(e) 同一性は推移的である
(f) 同一性は種概念に相対的ではない
(g) 同一性は時間的ではない、あるいは時間に相対的ではない
(h) 異なる物的対象は、精確に同時に同じ場所を占めることはできない
(i) 異なる物的対象は、それらが真部分をもっているとして、同時に全て同じ真部分を持っていることはできない(PPPが時間に相対化されたもの)
〔PPP=Proper Part Principle: 対象xが真部分zをもち、xの全ての真部分が別の対象yの真部分でもある場合、xはyの真部分であるか、またはx=y〕

3.4 四次元

(b)の否定

・(b)「ティブルスやその部分などの物質的対象は継続体である」を否定して流転問題を解決する。物的対象を四次元プロセスだと再解釈すれば、我々はティブとしっぽの分離を次のような図で表せる。
(省略)
・ティブルスの後の部分(cut〜t’)は、ティブの後の部分と同一である。一方前の部分は「ティブ+しっぽ」の前の部分と同一である。この場合ティブとティブルスは全ての部分を共有してはいない。従って、両者が非同一であると論じても、外延性を否定することにはならない。
・「ティブルス at t」をティブルスの時間切片を指示するものと解釈すれば、(3)と(4)が偽になり流転論法は防げる。また時間的な変容は述語でなく名辞に組み込まれているので、メレオロジカルな述語を時制付けたり時点で指標化する必要もない。メレオロジカルな述語は「永遠的」である。
・ではティブルスが無傷だったケースはどうか? ティブルス=ティブ+しっぽであるように思われる。しかし、前節では次のように論じられた:ティブルスは猫−プロセスであるから、ティブ+しっぽと同じように広がっていくことはできない。従ってティブルスとティブ+しっぽは仮定からして同じ部分を共有するにもかかわらず、異なったものである(PPPへの反例)。これを回避するために外延メレオロジー擁護者は、デレの様相的性質という考えは受け入れられないと主張しなければならない。
・こうした主張をとおして四次元主義が与える利点は何か。
1 メレオロジカルな外延性
2 同一性の論理と干渉しない。
3 継続体が分離されていない部分を持ち、部分の変化を通じて持続する等の常識を否定しない。
4 四次元主義の存在論は継続体が無い分単純。
5 用いられるカテゴリもなじみ深い。
6 時空とそれを占めるものの間の関係を素直に扱うことができる。
7 相対性理論の物理学と調和的
以上の利点から、ホワイトヘッドをはじめ科学的傾向をもつ哲学者達がこの存在論を推奨してきた。
・しかし、ここでは四次元主義をほとんど理解不可能なものとして退けていく。四次元存在論は不整合だという不満はないが、しかし継続体/オカレント存在論の使用者である我々に対して、この存在論を理解可能にさせるような仕事はこれまで行われていない。そうである以上、我々の現状のアリストテレス的概念枠組みを排除する積極的理由がない。特に流転論法も(h)(i)を否定するというよりシンプルな方法で回避できる。

プロセス存在論における物的継続体に関するクワインのまとめ

「時空において四次元的にとらえられた物的対象は、出来事〔……〕と区別されない。〔……〕ある対象が実体なら、いくつかはその対象の内部に(時間的に)あり、いくつかは外部にあるような、比較的少数のアトム群がある。」
 クワインは物的実体とは単に比較的少数のアトムしか増えたり減ったりしないようなものだと言っている。しかしこれは間違いである。有機体のように絶え間ない流れのうちにあるような物的実体もある。

チザムの議論

・チザムはオカレント存在論を擁護する3つの議論に対して反論した。
(1) 時間と空間のアナロジーによる議論。
→同一の物体が同じ時刻に違う場所にあることはないが、違う時刻に同じ場所にあることはあると指摘し、両者は重要な点で似ていない。

(2) 変化による議論:昨夜の泥酔と、今朝のしらふをフィリップに帰属させる時、我々は異なる時間部分に述語づけている。
→「フィリップのある時間段階が(無時間的に)泥酔し、別の段階がしらふだ」などと言わず、「フィリップは昨夜泥酔していた、今朝はしらふでいる。」と言えば良い。時制を使うか、述語を時間に相対化させるか。

(3) 流転からの議論:「時間的延長を空間的延長と同じものと考えれば、同じ川に二回ひたるのは、二か所で浸るのと同じく困難ではない」
→任意の川‐段階の和が−プロセスである訳では無い以上、和が川‐段階である場合の条件を示さなくてはならない。これは再び継続体を前提するか、絶対空間の理論を前提するか、「〜と同じ川の部分である」を意味するとしか理解できない「〜と合流する」なる述語を必要とする。従って一歩も前に進んでいない。

プロセス存在論の異様さ

・最後の論点は存在論の改定を示唆する者をうろたえさせる指摘である。改定が成功するためには、継続体を指示する全ての単称名・一般名と、それらが独立変数となるような全ての関数表現を消去しなくてはならない。そして恐らくホワイトヘッド以外誰もそんなことをしていない。再解釈することで新たな記述を与えるだけでは不十分で、記述される当のものを排除しなくてはならない。だから「「川」−段階」とか言うのは本当はごまかしなのである。こうして四次元対象の奇妙さはいつも過小評価されてしまう。そして過小評価されていないホワイトヘッドの哲学の中では、意味不明な不明瞭さにぶつかることになる。
・プロセス存在論の理解という問題は、継続体抜きの存在論に対して、継続体と出来事を含む現行の概念図式を使ってしまうことに由来する。継続体なしで我々がうまくやっていけるかどうかは疑問である。仕事に次元語を使う科学者でさえ本や実験器具や家族や自分自身について語るときにはアリストテリアンに戻る。一貫するならこうした語りも置き換えるべきである。もしストローソンが正しければそれは不可能だ。何故なら、何かへの指示というのは究極的には、知覚的に際立っている継続体(物体や人)への指示に寄生的だからである。確かに、ストローソンの要求をプロセス存在論の中に移し替えることが可能かもしれない。我々人間がそのような存在論では生きていけない場合でも、別の生物とかなら大丈夫かもしれない。こうしたことがあり得るか否かは、アプリオリに決められることではない。そういう文化に直面するまでは即断を控えるべきであり、直面して初めて、翻訳の問題を解かれるべきものとして考えたほうがいい。
・もちろん、以上の議論はプロセス存在論の不可能性を示したわけではなくプロセス存在論の異様な性格を示しただけである。継続体が無いのみならず、もっともなじみ深いオカレントである、継続体を含む出来事も無い。特に、継続体における変化もない。変化とはある対象がまずある性質を持ち、そして次に相容れない性質を持つことである。しかしプロセスは全ての性質を無時間的に持つのである。これは、ある時点で火かき棒が熱く別の時点では冷たいという事実が変化でも何でもないのと同じくらい全く変化ではない。