えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

どうして傾向性ではダメだったか クリプキ [1982=1983]

ウィトゲンシュタインのパラドックス―規則・私的言語・他人の心

ウィトゲンシュタインのパラドックス―規則・私的言語・他人の心

  • クリプキ S [1982=1983] 『ウィトゲンシュタインのパラドックス―規則・私的言語・他人の心』 (黒崎宏訳 勁草書房)
一般的問題

私の過去における全思考が、私はプラスを意味していたとも、私はクワスを意味していたとも、解釈され得るとき、何故私は、私の過去の傾性に関するある特定の仮説について、それが正しいと非常に確信しているのか。あるいはその代りに、仮説は、私の現在の傾向性のみに関わるべきであり、したがってそれは、定義によって、正しい答えを与えるだろうというのだろうか〔Alternatively, is the hypothesis to refer to my present dispositions alone, which would hence give the right answer by definition? 〕   p. 45

私が意味しているものを決定するところの「事実」の候補として、傾性論者の説明が与えるものは、そのような候補が満たすべき基本条件、すなわち、それは、いかなる新しい事例においても、何をなすべきかを私に告げなければならない、という事、を満足していないのである。結局のところ、傾性論者の説明に対するほとんどすべての反論は、この一点に帰着する。 p. 47

有限性の問題

 要約すると以下のようになる。もし傾性論者が、私の意味した関数を、任意の大きな変数について与えるべき私が傾性づけられている答えによって決定される関数として、定義しようと試みるならば、彼は、私の傾性は単に有限個の場合についてだけのものである、という事実を無視している。もし傾性論者が、この有限性を克服するために、理想化された条件の下での私の反応に訴えようとするならば、彼が成功するのは、単にその理想化が、そのような理想化された条件の下で、私が実際に意味した関数の計算結果を表している無限の表に従って、やはり私は反応するであろう、という条項を含む場合のみであろう。しかし、そうすると、その手続きが循環を含むことは明らかである。なぜなら、理想化された傾性が確定しているのは、どちらの関数を私が意味していたかについて、既に決着がついているから、なのであるから。  p. 54

誤りの問題

〔我々は計算間違いをする傾向性を持つ。しかし、〕傾性論者によれば、ある人が意味している関数は、その人の傾性から読み取られねばならないのであり、どの関数が意味されているかという事は、前もって前提とされることはできないのである。今の例では、ある特定の関数(我々はそれを「スカディション」(skadition)と呼ぼう)が、その表において、当の問題の人の傾性と、その人の誤りを犯す傾性をも含んで、まったく一致するのである。〔……〕従って常識的には、当の問題の人は、他の人と同じアディション関数を意味しているが、しかし系統的に計算間違いを犯すのだ、と言われるような場面で、傾性論者は、当の問題の人は、計算間違いを犯すのではなく、「+によって、ある普通でない関数(「スカディション」)を意味しているのだ、と考えざるを得ないように思われる。 pp. 56-57

総評:記述と規範

 私は「+」によってアディションを意味してる、と仮定しよう。この時この仮定と、いかに我々は「68+57」という問題に答えるのか、という問題の関係は何なのか。傾性論者はこの関係について記述的説明を与える。即ち、もし「+」がアディションを意味したならば、私は「125」と答えるであろうという説明を与えるのである。しかしこの説明は、この関係についてのあり得べき説明ではない。なぜならこの関係は、規範的なのであり記述的ではないのだから。論点は、もし私が「+」によってアディションを意味したならば、私は「125」と答えるだろう(will)ということではなく、もし私が「+」のこれまでの意味と一致しようと意図するならば、私は「125」と答えるべきなのである、という事なのである。計算間違い、私の能力の有限性、そしてその他の撹乱因子が、私が出すべき答えを出すように傾性づけられないよう、私を導くかもしれない。しかし、もしそうなら、私は私の意図と一致するように行為したのではないのである。私が「+」によってアディションを意味すること、私がそれと一致しようと意図することが、「68+57」という問題に応えるという未来の行為に対して有する関係は、規範的なのであり。記述的ではないのである。  pp.70-71