- 作者: ティム・クレイン,植原亮
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2010/07/29
- メディア: 単行本
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- クレイン ティム [2010](2001) 『心の哲学―心を形づくるもの』(植原亮訳 勁草書房)
pp.121-124
・「対象としての痛み」はわけがわからない存在者である。さらに、これについて語り出すとパラドクスが生じる。
ブロックの指摘
1 痛みが私の手にある。
2 私の手は私のポケットにある。
3 それゆえ、痛みが私のポケットにある。
痛みが対象であるならこの結論はおかしくない筈である。しかしこの議論は妥当ではない。ブロックは、問題は「〜に」という語の持つ曖昧さに由来すると論じた。
タイの内包的文脈による説明
一方タイは、この問題は「痛みが私の手にある」が内包的文脈を形成するからだと考えた。というのは心的動詞を含む内包的文脈においては、次のような類似の推論が生み出される。
4 私は市役所にいたい。
5 市役所はゲットーの中にある。
6 それゆえ、私はゲットーの中にいたい。
しかし、4−6では、市役所が「あるあり方で提示されているが別のあり方では提示されていない」ものであるのに対し、1−3ではそれにあたるものがなく、類比はうまくいっていないように見える。
カサティの因果的/存在論的依存
カサティは、内包性では1−3が妥当でない理由を説明できないことを次の例で示した。
7 私のズボンには穴があいている
8 私のズボンは押し入れにある
9 それゆえ、その穴は押し入れにある
これは妥当ではないし、しかも1−3と類似の推論に見えるが内包的文脈を含まない。
カサティは、「私のズボンに穴があいている」の「〜に」は、その穴がズボンに因果的ないし存在論的に依存しているという事を表している一方で、「私のズボンは押し入れにある」の「〜に」はそのような依存関係を表してはいないと論じ、やはり「〜に」が曖昧なのだと考えた。
クレインの提案
しかし、手に幻肢痛が生じ得るなら、痛みが存在論的に現実の手に依存していることはあり得ないので、カサティの議論はそのまま1−3には適用できない。
提案:状態としての痛みは手によって志向的に個別化されている。つまり、どの痛み-状態も、それを「完成させる」対象、つまり痛みをまさにそのような状態たらしめる対象が必要である。
ナポレオンについての思考はナポレオンによって個別化される。ペガサスが存在しなくてもペガサスについて考えられるのと同じように、たとえ手がなくても、手には痛みが生じうる。
このようにして、対象としての痛みについて語ることなしに、身体の部分「に」ある痛みについて語ることができるようになる。