- 作者: Edward Stein
- 出版社/メーカー: Clarendon Pr
- 発売日: 1996/01/25
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- Stein, E (1996) *Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science* (Oxford University Press)
Chap 2 Competence (noscience!)
Chap 4 Charity ←いまここ
Chap 5 Reflective Equilibrium (noscience!)
Chap 7 Standard Picture
Chap 8 Conclusion
心理学の実験によって、人間は規範的原理から外れた推論をバンバン行うことが分かった。しかしもしこうしたやばい推論全てをパフォーマンスエラーだと解釈できれば、人間の推論能力は合理的なものであるという「合理性テーゼ」は保たれる。この章ではこうした解釈を支持する考察、「チャリティ」を取り上げる。
1 チャリティ原則
『言葉と対象』でクワインは、ラディカル翻訳場面での翻訳をガイドする原理、「チャリティ原則」の概略を述べた。その基本発想は、もし不条理を言っているような翻訳が出来た場合、話者の合理性ではなく自分の翻訳を吟味すべきだというものである。「人の発話を解釈するためには、その人の心からの発話は多くの場合合理的だと仮定する必要がある」〔という事が、〕チャリティ原則の動機になっている。
ここではクワイン自身曖昧にしている2つチャリティ原則理解をはっきり分ける。
弱いチャリティ原則:人の(心からの)主張は、「強力な証拠がない限り」、不合理だと判断すべきではない
強いチャリティ原則:人の(心からの)主張は、「決して」不合理だと解釈すべきではない。
また、チャリティ原則の有効性が経験的主張なのか概念的主張なのかという点もクワイン自身曖昧である。しかし、これは経験的な主張としてはうまく擁護できない。というのもチャリティ原則の使用を擁護する経験的議論はおよそ次のように進むだろう。
(1)これまで、我々が理解した人はみな、(心から)不合理な主張をすることは稀だった
(2)従って、全ての人は(心から)不合理な主張をすることは稀である
(3)従って、人は不合理な主張をするものとして解釈されるべきではない
しかし(3)をペンディングしたまま(1)を正当化できるかどうかは全く明らかではない。つまり、チャリティ原則の一般的適用を根拠づける試みはどれも、個別の解釈場面での原則適用の成功例に訴えなければならない。しかしチャリティ原則が真に疑問視されているなら、個別の解釈場面で有効に適用可能であることは仮定できない。
というわけでチャリティ原則の有効性は概念的主張である。これは、信念とは何か、志向的解釈とは何かと言った〔概念的な問題から〕およそ次のように擁護される。
発話は(普通は)発話者の諸信念を反映している。 諸信念はその本性からして、矛盾している事はありえない。従って人は矛盾を発話していると(普通は)解釈すべきではない。
この議論を念頭に置きつつ、チャリティ原則が(翻訳ではなく)人間の推論の能力の解釈のガイドとしても採用されるべきかどうかを次に検討する。
2 推論能力へ拡張されたチャリティ
・人間が信念を持つ限りチャリティ原則は適用され、発話に限らず人間行動一般(特に推論行動)の適切な解釈はその人に合理性を要請すると考える者もいる。この種のチャリティ原則にも強弱が分けられ、強いものの下では、「全ての規範逸脱をパフォーマンスエラーとする戦略」は正当化され、弱いものでもある種のこの戦略は正当化されるだろう。
・推論能力にチャリティ原則を適用することは、先ほどより単純に擁護される。すなわち、「人が信念を持つなら、合理的だと解釈しなくてはならない」
・(例えば)連言課題の自然な解釈は、我々の推論能力は連言原理を欠くものとして特徴づけられるべきだというものであり、人間は不合理だということになる。一方でチャリティ原則から、この種の推論実験の結果と合理性テーゼが両立するという結論は次のように導出される。
(4)人間は推論の規範的原理から逸脱していると解釈されるべきではない(チャリティ原則)。
(5)推論実験の自然な解釈の下では、人々は推論の規範的原理を犯している
(6)自然な解釈は誤りである:こうした実験の適切な解釈は、人々を不合理だとは解釈しないようなものである。
この議論は、チャリティ原則が強いか弱いかにかかっている。不合理性の擁護者は、弱いチャリティ原則を認めても「強力な証拠はある」と主張する事が出来る(Tversky and Kahneman 1983)。従って、強いチャリティ原則のみが合理性テーゼに対する良い議論を提出できる。そこで今後は強いチャリティ原則にのみ焦点を絞る。
3 人間性原理
・Grandy (1973) は、チャリティ原則に対する反例として次をあげた。
ポールがパーティで「マティーニを飲んでるのは哲学者だ」と言った。しかし視界内にいる男(ビフ)はマティーニグラスで水を飲んでるだけで哲学者ではなかった。ところがパーティにはマティーニを飲んでる哲学者(ルドウィッグ)がちょうど一人いた。
・チャリティ原則によれば、ポールはルドウィッグは哲学者だと主張していると解釈すべきである(真なので)。しかし我々は実際は、ポールはビフについて誤った主張をしてると解釈するだろうし、そうすべきである。このことは自分をポールの立場に置いてみれば明らかである。
・グランディはこのような解釈を認可する原理として、「人間性原理」を採用した。これは、発話と推論の解釈に対し、「帰属される<信念・欲求・世界の関係のパターン>を、自分自身のそれと出来るだけ同じようにせよ」という制約を課す。
・人間性原理も推論能力に対し拡張できる:「われわれは自分が同じ状況で用いるだろう推論原理に従っているものとして、他人を解釈せよ」(なおチャリティ原則に対してと同じ理由で、人間性原理の有効性も経験的主張としては擁護できない)。
・チャリティ原則と人間性原理が乖離する事例を踏まえると、ここで合理性テーゼの擁護者には二つの戦略がありうる。
- (1)人間性原理の方が良い原理だと認め、人間性原理から合理性テーゼを支持する
・上の議論を次のように修正して、人間性原理から合理性テーゼを導出できるか?
(4’’)人間は私(解釈者)の推論原理から逸脱していると解釈されるべきではない(人間性原理)。
(5’)推論実験の自然な解釈の下では、人々は私が従うだろう推論原理から逸脱している
(6)自然な解釈は誤りである:こうした実験の適切な解釈は、人々を不合理だとは解釈しないようなものである。
・できない。(5’)は端的に偽だからである。人間性原理の下では、解釈者自身が不合理な事がありうる。
- (2)人間性原理はチャリティ原則より優れている訳ではないと論じる
・この戦略をとるものは、マティーニの例をチャリティ原則に対する反例とは見なさない。なぜなら、チャリティ原則は「全体論的」に適用されるべきものだからである。すなわち、チャリティ原則は、一つ一つの発話や個々の推論原理ではなく、発話や推論原理のセット全体に適用されるべきだからである。どういうことなの……?
4 全体論
・全体論的なチャリティによれば、解釈は人の信念・推論能力などの「完全な」解釈という文脈の中で行われる。従って問題なのはポールのブフに関する信念の真偽だけではなく、ポールの推論原理が合理的か否か、ポールの信念体系の全体が大部分真であるか否かという点でもある。最もチャリティある信念体系と認知能力の解釈という文脈の中でなら、ブフに関する誤信念をポールに帰属させることは許容されうる。
・問題は全体論的なチャリティ原則から合理性テーゼを導出できるかと言う点にある。全体としてチャリティある解釈の一部として、推論能力の中に逸脱した推論原理を認めることは可能だと思われる。しかしこれは、規範的な推論原理からの逸脱を全てパフォーマンスエラーだと考える「合理性テーゼ」の戦略と衝突する。この戦略は、人をその推論能力において合理的原理しか持たないように解釈することを要請するからである。
・全体論的なチャリティ原則とチャリティ原理による合理性テーゼの導出の両方を守りたい者は、(1)不合理性帰属を「決して」許さない「強いチャリティ原則」で、(2)何らかの形で全体論的なものを、擁護しようとするかもしれない。しかしどうすればこれが可能なのか不明だし、そもそも強いチャリティ原則は擁護できない(次節)。
5 強いチャリティ原則
5.1 チャリティ原則擁護論を拡張する
・信念所持には論理的一貫性の意味での合理性が必要だとして、チャリティ原則は正当化された。だが、これだと合理性テーゼの戦略を連言実験に適用することはできない。というのは、〔古典〕論理の規則を破ることなく、連言原理(pの確率はpかつqの確率より必ず大きい)に従い損なうことは可能だからである。
・そこで問題は、「確率に関する原理も信念所持にとって構成的かどうか」と言う点になる。特に合理性テーゼの擁護者は、「信念pは、その所有者がpの確率はpかつqの確率より「低い」と信じている場合、信念pに値しない」と言うことを示す必要がある。
・そんな議論が可能とは思えないが、仮に可能だとすると恐らくそれは連言原理とダッチブックの関係に焦点をあてるだろう。「信念pが他の信念と矛盾するなら、その人は本当は信念pを持っていない」と言うことが尤もらしく思える程度には、「信念pと他の信念との関係が、その所有者をダッチブックの餌食にさせてしまうようなものなら、その人は本当は信念pを持っていない」と言うことも尤もらしいのかもしれない。
5.2 有限性の苦境
・仮に上の議論が成功してもまだ問題がある。推論を企てるための時間・記憶・計算資源などは、人間とって有限であると言う「有限性の苦境」である。新しい信念が古い信念と整合的かをチェックする十分な時間を人間は持たないため、pと¬pを同時に信じる事はありえると思われる(有限性の苦境は強いチャリティ原則擁護者にのみ問題になる)
・ここで、強いチャリティ原則擁護者から可能な応答の一つは消去主義である。
(7)行為者が信念を持つなら、その行為者は常に合理的だと解釈されねばならない
(10)有限性の苦境により、人間は合理的ではない
(11)従って、人間は信念を持たない
・ただし、「強いチャリティ原則から合理性テーゼを支持したい人」はこの応答をとれない。チャリティ原則が適用できるものが何もなくなるので、〔人を合理的だとする〕解釈の指針を与えようがなくなってしまうからである。
・別の応答として「有限性の苦境から来る制限が影響するのはパフォーマンスである」というものがありうる。一生かかっても読み切れないが文法的な文を考える。人間はこの文法性を決定できないが、それは言語能力の限界ではなく、生の短さというパフォーマンスに関わる要因による。同じように、有限性の苦境にありながらも、推論能力に関して規範的な原理を持つことは可能である、という応答である。
・問題は、この応答には根拠が無いか、あるいは論点先取的だという点にある。そもそもチャリティ原則は、推論実験の結果を、不合理性テーゼを支持するものとして解釈「しない」ために喚起された。そして今、有限性の苦境がチャリティ原則への訴えに問題を提起している。とすれば、合理性テーゼを支持する何か独立の理由が無い限り、この問題提起に対して「有限性の苦境によるエラーは全てパフォーマンスエラーだ」と主張して合理性テーゼを守る事は、何の正当化ないただの論点先取である。
5.3 最小合理性
・有限性の苦境に対する別の応答として、必要な合理性を弱める戦略がありうる。チャーニアクは、行為者が推論の規範のいくつかに、時々は従う、という「最小合理性」があれば、その行為者に信念を帰属させ、それに心理的な説明を行うのに十分であると論じた。今やチャリティ原則は、「人間は最小合理的に解釈されなければならない」という「最小チャリティ原則」になる。
・では、最小チャリティ原則は、チャリティ原則に求められている仕事である「不合理性テーゼを阻止する」のに十分な強さを持つだろうか?
・もたない。(有限性の苦境で詰んだ)強いチャリティ原則が合理性テーゼの擁護に使えたのは、それが行為者を不合理する「一切の」解釈に反対するからである。一方で最小チャリティ原則は、いくつかの不合理性を許容してしまうため、この働きを果たせない。