えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

話し手の主観主義から表出主義へ Schroeder (2010)

Noncognitivism in Ethics (New Problems of Philosophy)

Noncognitivism in Ethics (New Problems of Philosophy)

  • Schroeder, M (2010) Noncognitivism in Ethics (Routledge)

【目次】
3 The Frege-Geach Problem, 1939-70
4 Expressivism ←いまここ
5 Moral Thought
6 The Frege-Geach Ploblem, 1973-1988
7 The Frege-Geach Problem, 1988-2006
8 Truth and Objectivity
9 Epistemology: Wishful Thinking

4.1 話し手の主観主義

この章の展望

 情緒主義者のスティーヴンソンは、自分の見解を「伝統的な関心説」と対比させた。この説は非認知主義の一種の祖先である。ここでは関心説の最も重要なタイプである「話し手の主観主義」とその困難を取り上げ、その困難を解くための単純なアイデアからいかにして非認知主義の一種である表出主義が出てきたかを見る。ギバードやブラックバーンの中に見られる表出主義は今日最も支配的な見解である。

話し手の主観主義

非認知主義的理論には二つの動機があった。
1)領域中立的な動機:メタ倫理の中心問題〔道徳的言明は何についてのものか?〕を回避する
2)領域特定的な動機:動機の問題を解く
哲学者はずっと以前からこの問題に気づいており、一般的な回答のアイデアがあった。すなわち「道徳的問いは我々の心理についてのものだ」。
これこそ「話し手の主観主義」である。その最もシンプルなものは次の2つの文が同じ意味を持つと考える。

1 「金を盗むのは悪い」
2 「私は金を盗むのに反対である」

この説の魅力:一般に人は、金を盗むのに反対でない限り「金を盗むのは悪い」とは言わない。話し手の主観主義はその理由を説明できる。

動機の問題

話し手の主観主義は次のように動機の問題を解く
・1と2が同じ意味なら、「金を盗むのが悪い」と考えることは「自分は金を盗むのに反対である」と考えることである。
・自己知は透明なので、あなたが「自分は金を盗むのに反対である」と考えているなら、あなたは実際に金を盗むのに反対している。
・反対が行動を差し控えさせるような心の状態なら、金を盗むのは悪いと考えることと金を盗まないように動機づけられることには密接な結びつきがある。

中心問題

 話し手の主観主義によれば、道徳的問題は我々の心理についての問題である。中心問題の前提は否定されないが、問いの対象は〔存在論的に〕なんら神秘ではない。しかも、対象の認識論にも困難は無い。道徳的な語(「悪い」)ではないの語り方(「反対である」)があるので、対象についての語りや思考もそれほど困難ではない。

→このように、話し手の主観主義は非認知主義と同じ動機に駆られた先祖だった。ではなぜ非認知主義者に取って代わられたのか?

4.2 話し手の主観主義の二つの問題

様相の問題

次のペアをそれぞれ比較せよ

3 もし僕は金を盗むのに反対でなかったとしたら、僕が金を盗むのに反対であるというのは本当ではなかっただろう。
4 もし僕は金を盗むのに反対でなかったとしたら、金を盗むのは悪いというのは本当ではなかっただろう。
5 もし僕が明日までに金を盗むのに反対であるのをやめたなら、僕が金を盗むのに反対であるというのは明日は本当ではなくなる。
6 もし僕が明日までに金を盗むのに反対であるのをやめたなら、金を盗むのは悪いというのは明日は本当ではなくなる。

それぞれ前者は明らかに真だが、後者はどう見ても偽である(あなたが神である場合を除く)。しかし話し手の主観主義によれば1と2は同じ意味なのだから、3と4、5と6は必ず同じ真理値を取らなくてはならない。
→つまり1と2は、様相(3、4)や時制(5・6)の下で違うはたらきをする。なのでこの問題を(単純に)「様相の問題」と呼ぶことにする。
・様相の問題は「話し手の主観主義によると道徳性はとても客観的なものではない事が帰結する」と特徴づけられることもある。が、「客観性の程度」の話はあんまりしたくない。様相の問題は厳密な問題である。主観主義を受け入れると、4が真だということになり、あなたは金を盗むのが悪いか否かに関して一定のコントロールを持つことになる。このことが「道徳性がより客観的でなくなる」と直観的に理解されるのである。

不一致問題

・次の電話での会話を考えよ。何かがうまくいっていない。
フィル「やあサリー、フィルだよ。私は今シアトルにいるんだ」
サリー「それは違うわ。――私はシアトルにはいない。ニューヨークにいるのよ」
→フィルの「私はシアトルにいる」は、サリーの「私はシアトルにいない」と不一致を起こしているのではない。むしろ両者は完全に整合的である。

・また次の会話を考えよ。同じように何かがうまくいっていない。
フィル「私は金を盗むのに反対だ」
サリー「それは違うわ。――私は金を盗むのに反対じゃないの!」
→ここでも本当は二人の発言は全く不一致をおこしていない。

・しかし、次を見よ
フィル「金を盗むのは悪い」
サリー「それは違うわ。――金を盗むのは悪くない!」
→ここでは何のおかしいところもなく、二人は本当に不一致を起こしている。しかし話し手の主観主義によればこの会話は2つ目の会話の別のやり方にすぎない筈である。

4.3 表出主義者の基本的な策略

 表象主義のポイントは問題の原因の診断である。問題を引き起こすような話し手の主観主義の特徴を突き止めてそれをあきらめよ!

信念文の場合

仮に、次の二つの文が同じ意味を持つと主張し、そのことによって前者の文の意味を説明しようとする理論を考えて見よ。

7 草は緑い
8 私は草は緑いと信じる

この理論はあらゆる理由からダメだが、様相の問題と不一致問題を引き起こすところに注目せよ
【様相の問題】
9  もし私が草が緑いと信じていなかったとしたら、私が草を緑いと信じているという事は本当ではなかっただろう
10 もし私が草は緑いと信じていなかったとしたら、草が緑いという事は本当ではなかっただろう
11 もし僕が明日までに草は緑いと信じるのをやめたなら、僕が草は緑いと信じているというのは明日は本当ではなくなる。
12 もし僕が明日までに草は緑意図信じるのをやめたなら、草は緑いというのは明日は本当ではなくなる。
【不一致問題】
フィル「私は草は緑いと思う」
サリー「それは違うわ! ――私は草は緑いとは思わないの」

フィル「草は緑い」
サリー「それは違うわ! ――草は緑くない」

表出主義の根本アイデア:信念文との類比

 しかし実際には「草は緑い」に関して様相の問題や不一致問題は生じないのだから、「草は緑い」と「私は草は緑いと信じる」との間の関係は「意味が同じ」というものではありえない。
→表出主義のアイデア:信念文と同じことが道徳文にも言える。「金を盗むのは悪い」と「私は金を盗むのに反対である」が「同じ意味を持つ」と考えたがゆえに、話し手の主観主義は2つの問題に巻き込まれた。
つまり表出主義の根本的なアイデアは次の類比である
・「金を盗むのは悪い」:金を盗むのに反対すること :: 「草は緑い」:草は緑いと信じること

表出‐報告区別

「草は緑い」と「私は草は緑いと信じる」の間の違いは、表出−報告区別と呼ばれている
「私は草は緑いと信じる」は草は緑いという信念を報告している
「草は緑い」はその信念を表出している
この用語法を使えばつまり
・話し手の主観主義:道徳文の意味は心的状態を報告するところに存する
・表出主義:道徳文の意味は心的状態を表出することに存する
表出主義のいう「表出」とは、それが何であれとにかく「草は緑い」と草が緑いという信念との関係のことを言う術語であるという点に注意

4.4 以前の理論との対比でみる表出主義

言語行為の理論としての以前の非認知主義理論

 エイヤーもスティーヴンソンもヘアも、道徳的語の意味はそれが何に使われるかに存すると考えた。この意味で彼らの理論は本質的に言語行為の理論である。
→意味の理論を作る時も、まず原子文で行うのが適した言語行為を決定するレシピを与え、つぎにそこから複雑な文で行うのが適した言語行為を決定するレシピを与える。
 しかし、表出主義は言語行為の理論である必要はない(心的状態の表出が一種の言語行為だと考える者もいるが)。表出主義者は文を言語行為に結びつける必要はなく、心的状態に結びつければいよい。
→表出主義者は、「P」の意味を、「Pと考えるとはどういう事なのか」を言う事によって説明する。草は緑いと信じることは、心から世界への適合方向を持った心的状態である。そして、金を盗むのが悪いと考えることは、世界から心への適合方向を持った心的状態である。
 意味論を作る際に必要なレシピは、複雑な文Pの意味、つまり「Pと考えるとはどういう事か」を、その文の構成要素であるQ,R……と考えるとはどういう事なのかということを基盤にして、構成する方法を教えてくれるようなものになる。

表出主義の2つの長所

(1)表出主義は道徳的思考の本性の探求を必要とする
 非認知主義者は、道徳的問いが何かについてのものだという想定を否定することでメタ倫理の中心問題を回避する。この時、伝統的な非認知主義者は、道徳的「文」が何かについてのものではないと主張し、道徳文の使用に別の説明を与えようとしたに留まった。しかし、道徳的文が何かについてのものでもないなら、道徳的「思考」も何かについてのものではないはずである。つまり非認知主義者は道徳的思考に関する理論を必要としている。
(2)動機の問題への直接的なアプローチ
 そもそも「動機の問題」は道徳的思考についての問題だったのだから、思考を直接問題にする表出主義には一分の利がある