えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

隠された意図: 自己欺瞞の動的パラドクス 浅野 [2012]

非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞

非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞

  • 浅野光紀 [2012] 非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞 (新曜社)

目次
第一章 自己欺瞞
第二章 自己欺瞞のドグマ
第三章 自己欺瞞の帰結 ←いまここ
第四章 アクラシア 
第五章 実践推理の外へ
第六章 アクラシアの自由

この章の目的は、自己欺瞞においておこる「証拠の操作」にまつわる意図のパラドクスの解決です。
 望ましくない真実に気づいた時、そうではあってほしくないという欲求によって、心の安寧を得ようと欺瞞の意図が導かれます。しかし自らの意図に自らが気づかないなどということは普通ありえず、そうであれば自己欺瞞は成立しない――これが意図のパラドクスでした。そうすると自己欺瞞の存在は、自分の行為をリアルタイムで導いている意図に関する盲目性を示唆しているのではないでしょうか。

1 自己欺瞞と願望的思考

 自己欺瞞が意図的な現象であることを否定する論者もいます。例えばアルフレッド・メレは、自己欺瞞では偽なる事態への欲求や真なる事態への恐れによって証拠の操作が引き起こされていると考えます。欲求や情動の関与からは、証拠の操作は意図的だということは帰結しません。
 そうすると、自己欺瞞には真なる信念は関与しないことになります。自己欺瞞は「ある特定の真なる信念を抱くことを防ぐ」過程なのです。メレにとって自己欺瞞とは、真なる信念も欺瞞的な意図も関係せず、欲求によって認知がゆがみ、都合の良い事態を楽天的に信じている状態と定式化されます。
 しかしこのような特徴は「願望的思考」と呼ぶ方が適切ではないでしょうか。自己欺瞞と願望的思考は、欲求や情動という動機的要因によって信念が形成されるという点でどちらも非合理な信念形成ですが、真なる信念とそれがもたらす葛藤の存在によって、概念的にも経験的にも区別されるものです。自己欺瞞と願望的思考を同一視するメレの立場は、もし意図的な自己欺瞞の存在を認めてこそ明らかになる心に関する事実が存在するならば、それを取り逃すことになってしまいます。ここでは、意図的自己欺瞞の存在、つまり「隠された意図」の存在を認めつつ、健全な心の分割によってパラドクスを解決する道を探ります。

2 意図と実践推理

 自己欺瞞の意図性を否定する論者には、一つの予断が存在します。それは、意図的行為というのは、その行為に先立つ明示的で意識的な熟慮の思考過程、つまり「実践推理(practical reasoning)」によって導かれているというものです。確かに自己欺瞞にこうした熟慮過程が含まれているとは思えません。そこで、自己欺瞞を意図的だと考える筆者が行うべきことは、ある意図のもとに行為することと、その意図に関する行為者の気付き(awareness)の概念を切断し、主体の気づき無き意図、隠された意図の可能性を論証することです。

3 意図のパラドクス

 行為中の意図は、言語的に分節化されているとともに「観察によらない知識」でもあります。ここで問題なのは、ある意図のもとに行為しつつ、行為者本人がそれに気づいていなかったり(自己知の全知性)、それに関して判断を誤ったり(自己知の不可謬性)することがあるか否かです。自己欺瞞の存在に必要なのは、自身の心的状態への特権的アクセスに障害が生じ、自分の行為を導いている意図に気づかないという可能性です。
 自身の意図に関して間違えるのはどんな時でしょうか。例えば、些細なことで子供を叱る親を考えましょう。その理由を問われると「しつけのためだ」と言い、そしてそれは嘘ではないのですが、実は会社でたまったうっぷんを晴らすために叱りつけているのが実情だとしましょう。この場合、この親は自分の行為を導いている主要な意図に関しては間違っていることになります。二次的な意図のみで行為を事後的に合理化しているにすぎません。ここで特に、「しつけのため」という二次的な意図が社会規範に沿ったものであるという点が重要です。このようなステレオタイプ化した説明図式は、行為者の記憶の中で常に利用可能なものとなっており、自分の行為の説明にもすぐに適用されることで、真の意図に気づく障壁となるのです。心理学者のT・D・ウィルソンも、心的状態に関する明示的な判断=言語的報告が非言語的行動と全く噛み合っておらず、自分の行動を導く真の原因について我々はまったく信頼できない存在であることを明らかにしています。自分の行動や感情の原因について、ステレオタイプなや発見法から自由に判断を下すことは我々には困難です。
 かくして、「意図的行為」概念とその意図に関する主体の「気づき」概念が切断されました。自己欺瞞を意図的な現象として捉え、かつ意図のパラドクスを解決するという目的は果たされました。

4 心の分割:行為と思考

「行為と思考の分割」

 では以上の議論からどのような「心の分割」が示唆されるでしょうか。それは「行為と思考の分割」です。行為を導く心のシステムと、推論的に思考するシステムは本来独立で、齟齬をきたす可能性があるのです。これまでの行為の哲学は、実践推理に導かれた行為を行為の典型例としてきました。しかし、明示的な思考過程が介在しないが意図的になされるような行為も数多く存在します(例えば習慣的行為)。意図的行為の外延は、実践推理が先行する行為よりも広いのです。

「実践推理」と「実践的三段論法」

 全ての意図的行為に共通する特徴は、「何らかの理由によってなされている」という点です。ここで、「実践推理」と「実践的三段論法」の概念を区別しましょう。「実践推理」とは、いくつかの選択肢の中からどれを優先させて行為するかを判定しようとする(明示的で意識的で言語的な)熟慮の過程です。他方で「実践的三段論法」は、ある意図的行為がなされた場合に、それを引き起こしたはずの信念と欲求(理由)を事後的に論理的に再構成できるということにすぎません。我々が行為する際、明示的に「実践的三段論法」を行っていると考える描像はグロテスクなものではないでしょうか(「私は用を足したい」「トイレに行けば用を足せる」「よし、トイレに行こう」)。行為に先立ってなされる推論過程としては、「実践的三段論法」は存在しないのです。
 にもかかわらず、多くの哲学者は、両者の間に区別を設けず、「実践的三段論法」を「実践推理」の「最も簡単なケース」(デイヴィドソン)とみなしました。合理的な思考過程が先行する行為をモデルにして、全ての意図的行為について考えてしまったのです。
 自己欺瞞における証拠の操作は、関連する信念や欲求を容易に指摘できるため、これは意図的行為だといえます。しかしそれは、自分を欺こうという明示的思考、実践推理に導かれたものではありません。行為と思考のシステムは異なっており、思考の過程は行為決定に重要な因果的役割を果たしていないことがある。これが自己欺瞞を整合的に説明するために受け入れなくてはならない結論です。これはつまり、従来の行為の哲学に反して、我々の行為を考えるときに典型とすべきなのは、むしろ実践推理が明示的に伴わない行為の方だということです。

分離脳の事例

 「行為と思考の分割」は、経験的知見とも整合的です。ガザニガの報告する「分離脳」患者には次のような事例があります。
 まず、言語野がある左脳からの系列である右視野に単語や事物の絵を見せると、患者はその名前を容易に応えることができます。一方右脳の系列にある左視野に見せても、患者は口ごもってしまいます。しかし右脳は提示された情報を非言語的な仕方で用いることができます。見せられた絵と同じものをテーブルの上から左手で選ぶことができるのです。分離されてない脳では勿論両半球に情報の流れがあるわけですが、この例からは常に言語的な意識が行動を先導している訳ではないことがわかります。
 また、右脳に限定的な言語能力がある人の左視野に「笑え」と提示すると患者は笑い出すのですが、自分がどうして笑ったのか左脳にはわからないので、即座に笑いの理由をでっちあげます。このように、言語が可能にする推論的思考、明示的意識(左脳)は、行為と自身の間に齟齬が生じると、すぐにそれを解釈して合理化する働きを持っています。
 さらに、右視野と左視野に別々の絵を提示し(鶏の脚/雪景色)、右手と左手にそれぞれ関連するカードを選ばせた(鶏/シャベル(雪かきに使うので))場合、左脳は何故シャベルが選ばれたのか理解できず、「何故その二枚を選んだのか」という問いに対して意図を捏造するのです(「鶏の脚は鶏に関係するし、シャベルは鶏小屋を掃除するのに必要なので」)。

その解釈

 ガザニガは、このような現象は通常の行為者にも共通の傾向が、わかりやすい形で明らかになったものだと解釈します。脳は複数のモジュールで作られており、ひとつを除いてすべてが非言語的モジュールである。自分の行動すべてを知っているような統一的な意識のメカニズムは無い。こう考えるのです。自己欺瞞の場合も、左脳の解釈機構が真の意図に気づく障害になっているのでしょう。思考の役割は自分とは独立の過程によって決定された行為を事後的に合理化し、主体的に行為を導く統合された自我という物語を維持することなのです。
 自己欺瞞と分離脳患者の違いにも注意すべきでしょう。分離脳患者の意図のねつ造には両半球の間での情報遮断という認知的な要因しか関与していません。もし真実を指摘されればそれを認めることに何の躊躇もしないでしょう。一方で、自己欺瞞者には欲求や感情という動機的な要因が関与しています。このため、自己欺瞞者は真実を否定しようとするのです。