えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

反省的均衡の諸問題 植原 (2008)

http://hps.c.u-tokyo.ac.jp/publications/kagakushi-kagakutetsugaku/no21/

  • 植原亮 (2008) 「反省・合理性・分業体制」 『科学史・科学哲学』 No. 21

反省的均衡の問題

 ある信念の受容が合理的なのは、それがある規則によって導出されている時だと考えられます。では、その規則の受容は何故合理的であると言えるのでしょうか? 『事実・虚構・予言』のグッドマンは、個別的な推論に対する日常的・直観的判断と、理論的考慮から導かれた規則との間の均衡にその根拠を求めました。後にロールズが言う「反省的均衡」(狭い反省的均衡)です。では、はたして反省的均衡は合理的受容の根拠づけを必ずもたらしてくれるのでしょうか。
 例えば、個人間、文化間で均衡点が複数存在する(「発散」)場合、どちらの均衡から得られる規則を受容すべきなのかという問題が生じてきます。個人や文化での直観の多様性の存在を考えると、素朴なままでの反省的均衡で合理性を確保することは難しそうです。では、どのように反省的均衡を修正すればよいでしょうか。

エキスパートによる反省的均衡の問題

 一つは、認識的な営みに関して卓越していると共同体の中で認められるエキスパートに、反省的均衡の範囲を限定するという方針があります。しかしこの方策には、(1)エキスパートを選ぶというステップに論点先取が含まれるという点、そしてそれゆえに(2)エキスパート間でも均衡点が複数存在してしまう可能性という二つの欠点があります。

広い反省的均衡の問題

 もう一つ、直観と理論的要請の他に、関連する科学・哲学理論までを含む三者の間で均衡を取ろうとするアプローチ、「広い反省的均衡」があります。これには二つの批判が可能です。

(1)恣意的な直観の混入

 ここでも、恣意的な仕方での直観の反映を免れず、均衡の結果の規則に基づく判断が以前の素朴な判断よりも改善されていると考えられる理由がないのではないでしょうか(スティッチ)
 N.ダニエルズがこれに応戦します。広い反射的均衡なら、均衡が恣意的に得られたものではないことが説明可能です。というのは、一意的な均衡に至った場合はその均衡の性質を背景理論に訴えて説明できますし、逆に発散した場合にはその源泉を、合理的受容の基準にかかわる文脈ではなく、背景理論の不一致を探ることで確定できるというわけです。
 しかし、均衡点の性質が判明していることと、そこで得られた規範の受容が合理的であることとの間にはギャップがあります。また、発散が理論の不一致で説明されてもなお、どちらの規範を選択すべきかは決定されない可能性があります。この場合、「さらに反省的均衡を続けよ」と再反論されると思われるのですが、いったいどこまで続ければよいのでしょうか。

(2)実行可能性

 最後の問いに関係して、そもそも広い反省的均衡は実行不可能なのではないかという第二の反論があります。背景理論を含めた理論的要請はかなりの大規模だと予想されるからです。実行可能性を保証するためにはどのような道具立てが必要でしょうか。
 まず、直観・理論的要請・背景理論の三者が均衡に至る過程を明らかにする理論が必要です。その際、この三者を或る程度確定・把握するための理論も必要になります。均衡をはかるプロセスは認識プロセスの一種なので、これらの理論は認識論ないし合理性の理論であるといえます。つまりここでは次の循環が成立します。

・認識論→広い反省的均衡の可能性→広い反省的均衡→規則の抽出→認識論の構築→……

この循環がよい循環かを見極める点には困難があります。また、合理性の理論が萌芽的な段階でしか存在しない現状では、このような作業がアプリオリに可能だとは思われません。
 以上より、手持ちの道具立てから広い反省的均衡の実行可能性を示すことは難しそうです。広い反射的均衡の擁護者は、実行可能かどうか今のところ不明な一つの方法論的プログラムに企投していると理解するのがよさそうです。

分業と反省的均衡

 ここで見方を変えましょう。何らかのものを探求するにあたって、生得的な条件や文化による直観の多様性は外せない制約だとみとめ、しかしそれが探求にとってかえってプラスに働くような状況の可能性を示唆できれば、反照的均衡の擁護が可能になります。
 このような状況とは、探求が個人ではなく共同で行われる状況です。科学の際立った特徴に、それが集団的な活動つまり分業体制であることが挙げられます。個々の科学者の多様な直観は探求の豊かな可能性を与えてくれます。そして徐々に有効な探求の方法が明らかになり、経験的探求が蓄積されていきます。この分業体制の中に反省的均衡を埋め込むことができれば良いわけです。
 まず個人で反省的均衡が行われ探求を進行させ知見を積み重ねます。そしてそれらの知見が相互に影響することで直観や理論の修正が生じ、再び探求が始まります。こうすれば、個別の探求者の反省的均衡がもたらす規則群が合理的に需要可能ではなかったとしても、それらの反省的均衡を要素として持つ認知的分業が提供する規則群は、合理的に受容される可能性が高いと思われます。
 この描像には反省的均衡を埋め込む領域、その広さはどのようなものが適切かという問題が残りますが、これには様々な経験的知見が不可欠であり、それもまた分業体制で行われることになるでしょう。

まとめ

規則の合理的受容の方法としての反省的均衡は、均衡点の発散という場面に示唆される様な懐疑を呼び込む可能性を弱点として抱えている。それは広い反省低均衡などの修正策によっても簡単に補うことはできない(実行可能性についてはさらなる経験的探求を要する)。しかし、認知的分業の内部に埋め込むことで反省的均衡は有効に機能する可能性がある。この意味で、合理性は共同的営為によって実現され得ると言えよう。とはいえ、そのことの証明もまた経験的探求を通じて果たされるべき重要な課題なのである。  p. 82