えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

証拠の操作: 自己欺瞞の静的パラドクス 浅野 [2012]

非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞

非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞

  • 浅野光紀 [2012] 非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞 (新曜社)

目次
第一章 自己欺瞞
第二章 自己欺瞞のドグマ ←いまここ
第三章 自己欺瞞の帰結
第四章 アクラシア
第五章 実践推理の外へ
第六章 アクラシアの自由

 前章で自己欺瞞は意図的という点が強調されましたが、それは具体的には「証拠の操作」が意図的なのだと明確化されました。「証拠の操作」の導入により、自己欺瞞の意図は自滅的ではないのかという意図のパラドクスは先鋭化してくるわけですが、一方信念のパラドクスの方は解決されます。

信念のパラドクス

 証拠の操作を説明するには、真なる信念、偽なる信念、前者から後者への移行を促している過程の3つが必要です。この最後の状態は、どちらの信念が抱かれるべきかまだ不確実であり、どちらも抱かれていない状態であり、実は矛盾する信念の同時存在という信念のパラドックスは存在しないのです。伝統的にこの過程は、矛盾した信念が同時にもたれている状態と解釈されてしまいましたが、そうした解釈は不整合に陥らざるをえないことが示されます。

ディモスの場合

 例えばディモスは矛盾した信念の一方を「疑念」と呼んでいます。確かに疑念pは信念¬pと両立可能でしょう。つまり矛盾した信念が可能だという時、実はディモスは秘かに信念という言葉をゆるい意味で用いているのです。
 またディモスは矛盾した信念の説明として、「注意」概念を持ち出します。真なる信念からは注意をそらしているので、矛盾した信念の衝突は免れるというわけです。しかし、物体ならぬ信念に注意を向けたり逸らしたりというのは精確にはどういうことでしょうか。結局これは、偽の信念を支持する世界の側面に注意を向けること――つまり「証拠の操作」に他ならないのではないでしょうか。だとすると、ディモスの言う自己欺瞞とは、真なる信念、偽なる信念、証拠の操作の三つが重複した現象であることになります。しかし、すでに偽なる信念を持っているなら、偽なる信念獲得による不安軽減を目的とする証拠の操作はそもそも起こらない筈ですから、この見解は不整合に陥っていることになります。
 以上より、信念をゆるい意味で捉えると「矛盾した信念の同時存在」という言い方はミスリーディングとなり、信念を厳密な意味で捉えると証拠の操作とは整合しなくなるということがわかりました。

デイヴィドソンの場合

 デイヴィドソンも矛盾した信念が共存すると考えます。証拠の操作は認められますが、偽なる信念獲得後も真なる信念が残ると考えられるのです。しかし全体論によれば、一つの信念の帰属には関連する様々な心的状態の帰属が伴う筈です。それぞれの信念は「不安」および「安堵」の感情を引き起こし、主体の中で両者は共存する筈ですが、これはいかなる感情なのでしょうか。また、主体はどちらの信念に従って行為すればいいのでしょうか。「心の分割」を導入しても、この問題は相変わらず生じてきます。
 デイヴィドソンは、偽なる信念獲得後も真なる信念が残り続ける理由として、真なる信念の方を支持する証拠に主体は脅かされ続けるので、偽なる信念は「不安的」であるからだと述べます。しかしそれは、ディモスが描写したような疑念pと信念¬pの両立、そして、どちらの信念も抱かれていない状態にすぎないのではないでしょうか。我々は任意の命題に関して、つねにその肯定か否定のどちらかを信じていなくてはいけないという訳ではありません。デイヴィドソンにはこの中間的視点が欠けています。たしかにデイヴィドソンにも、緩い意味で信念を使っていると解釈できる部分がありますが、しかしそうだとすると今度は、矛盾した信念の問題には「心の分割」が必要だという論点と整合しなくなります。
 以上より、デイヴィドソンの見解も整合的でないことがわかりました。

概念と経験:デイヴィドソンの心の分割論

 そうすると、信念のパラドクス解決のために心の分割は必要ないのではないでしょうか。
 そもそもデイヴィドソンは、心的概念が互いに互いを合理的なものとして説明しあう全体論的ネットワークを構成しているという考え方をもっていました。このような合理主義的全体論と、矛盾する信念の同時存在という想定を整合させるには、心を分割せざるをえません。つまり心の分割論は概念的考察によって論理的に出てきたものであり、経験的内実を欠いているのです。しかし、自己欺瞞仮定の経験的実質というべき「証拠の操作」が心の分割と整合しないことはすでに見ました。経験の裁きに耐えきれない概念枠は改定されるべきです。
 つまり、信念のパラドクスは真のパラドクスではなく、自己欺瞞には初めから意図のパラドクスしかなかったのです。「心の分割」により説明されるべきなのもこれだけです。