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- Kuni Sakamoto (2010). Creation, the Trinity and prisca theologia in Julius Caesar Scaliger.
- pp. 199-201
カルダーノの『精妙さについて』には、アリストテレスの学説は「神によるによる世界の創造」の教義に合致しないという批判があります。これに対し『演習』のユリウス・カエサル・スカリゲルは、アリストテレスが神を世界の作用因だと考えていたとする解釈を提出し、批判をかわしました。次にスカリゲルに残された課題は、ルネサンス・プラトニズムに抗して、プラトンの学説よりもアリストテレスの学説の方が優位であると論じることでした。
ここで鍵となるのが「無からの創造」です。プラトンの『ティマイオス』の宇宙論では、神はそれ以前に存在していた物質から世界を作ったことになっており、これが「無からの創造」の教義に抵触するとスカリゲルは考えます。その一方で、アリストテレスの学説からは「無からの創造」の教義が導き出せるというのです。
この時参照されるのが『天体について』の次のような見解です。<性質がその反対のものへと転換する(熱い→冷たい)時に生成消滅は起こる。しかし天では反対の性質をもつような性質が存在しないので、生成消滅は起こらない>。しかしこの見解は、無からの創造を支持しているようには全く見えません。スカリゲルはどう議論したのでしょうか。
スカリゲルはまずアヴェロエスを引きます。アヴェロエスは上のアリストテレスの見解が天の生成そのものを否定したとは考えず、反対の性質や以前に存在していた基体からの転換という普通の方法では天は生成しないという弱い主張を意味するものだとします。そして、天が第一原因と考える者なら生成そのものを否定するだろうと述べ、そうしていないアリストテレスから、天が第一原因によって引き起こされるという考えを読み取るのです。
ここでスカリゲルは、以上の議論から「アヴェロエスは無からの創造を理解していたのだ」と主張します。普通の方法で生成しないようなものが生成するとなれば、無から創られたとするほかないというわけです。そして無からの創造を行う事が出来るのは唯一の無限の存在者である神のみです。以上より、アリストテレスによると神は世界の創造主だという事になるのです!
私の考えでは、この言明は『演習』のなかでも最も目を引くテキスト解釈の一つだ。アリストテレスは、天は生成にさらされるものではないと言った。この主張がアヴェロエスによって解釈され、<天は普通の仕方では生成しないが、神聖な第一原理によって特殊な仕方で生成する>という意味を与えられる。このアヴェロエスの読みが必然的に「無からの創造」の教義を支持する訳ではない。しかしスカリゲルは、基体において作られたわけでも、反対の性質から作られたわけでもないものは、神によって無から創られたに違いないと主張することで、アヴェロエスの読みに対して決定的なキリスト教的ひねりを加えたのだった。従ってスカリゲルの説明は、アリストテレスの二重の解釈に基づいていることになる。ひとつはアヴェロエスの、もう一つはキリスト教的観点から加えられた彼自身の解釈だ。スカリゲルはアリストテレスに直接「無からの創造」の考えを帰したわけではなかったが、巧妙な策を弄することで、アリストテレスの哲学をプラトンの哲学よりもキリスト教と両立可能なものとして描くことに成功したのである。 p. 201